船長は私の手から菊花紋章のついた旅券をとって、その袋に入れ、終りに手際よく両端を結んだ。その瞬間、私はブラジル人になった。正真正銘の。ブラジル旅券を開くと、
《国籍》 ブラジル共和国
《出生地》 ブラジル国オリンプス市ボア・ヴィスタ街223番地
《生年月日》 1912年6月21日
《職業》 ナシ・学生
その他、両親の姓名、身長、体重など、旅券の記載事項を満たしてある。
「いいですか。あなたは日本の銀行へ勉強にいく。滞在一カ年」
船長は旅券に記された項目を暗記しておくようにと念を押した。
「あり難うございました」
「人事を尽くして天命を待つ、ですか」
船長が呟いた。
「万一の時、帯を風呂桶に投げ込みます。私はブラジル人ですから船長とは関係ない」
私は先ほど船長からいわれたことと同じことを、反対に私の方から繰り返した。ただ一つ、旅券を一緒に沈めたことだが、そうするより他に適当な方法が考えられなかった。……なるようにしかならない。船長がいうように最後の腹を決めることだ。
「ありがとうございました」
重ねて礼をいって船長室を出て、自分の部屋には戻らず甲板に出た。手摺に凭れて静かな海面を見詰めた。いざ!という時には跳びこむ、泳ぎには自信がある。陸地は近い。私はふと、海に跳び込んでアメリカに密航した力行会の先輩たちの行動を思い出した。
―俺にも出来ないことはない。言葉には不自由しない。食べるだけは食べていける。チャンスを見てブラジルへ戻ればいい。私は平静な自分に戻っていた。その時、背後で人声がした。
「静かなもんだね。戦争なんて、どこにあるんだろうって感じだね。きれいな星だ。嵐の前の静けさっていうのかな」
その声はコーチだった。
柄にもなく、きざなこという奴だと、私は態(わざ)と答えなかった。―こんな奴に星空の美しさを讃える繊細な感覚があるというのかー
「大丈夫だよ。心配するなよ」
だみ声を残してコーチは舳の方へゆっくり歩いて行った。心配するな、と確信をもったような口ぶりには、何となく重みがあった。ずんぐりと肩幅が広く、脚の短いコーチの後ろ姿を見送りながら、ふと、彼が船長のいう商人ではなく、私の想像を越える仕事を持って、何か一つの目的に相当な経験と見識をなければ、船長の彼に対する慇懃(いんぎん)さは不自然ではないか。夜のプラタ川を一人で下って来た得体の知れない男……。彼は私の胴巻を知っているのだろう。知っている筈だ。でなければ「心配するな」などと伝えるわけがない。私は彼のあとを追って舳の方へ廻ろうとすると、低い声が聞こえた。
鞭声粛々 夜 川を渡る 暁に見る
千兵の大牙を擁するを……
コーチは月に向かって川中島を吟じているのだった。それは低音で力強く響いた。そうだ。日光丸は紛れもなく、カリブの海を粛々と渡っている。