ブラジル兵庫県人会(尾西貞夫会長)は17日、サンパウロ市リベルダーデ区の宮城県人会館で『阪神淡路大震災二十年法要』を行った。約80人が参列し、同災害で亡くなった6434人へ黙祷を捧げた。井戸敬三県知事からのメッセージが代読されたほか、震災復興の様子がわかる写真展も行われた。
1995年1月17日午前5時46分、明石海峡を震源にマグネチュード7・3の大地震が発生し、6434人が死亡、負傷者は4万3792人を数えた。家屋は全半壊が24万9180棟(約46万世帯)で一部損壊が39万棟、被害総額は約10兆円規模、関東大震災以来といわれる都市型の大災害となった。
法要の挨拶に立った尾西会長は、「早くもあれから20年の年月が流れました。振り返ってみれば感無量の思いです。改めて亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします」と述べ、黙とうを捧げた。当時、同県人会が音頭をとってコロニアからも50万レアルの義捐金が集められ、6万羽の折鶴と共に贈られたことは記憶に新しい。
井戸知事はメッセージに「皆様をはじめ、内外から多くのご支援や励ましを頂き、懸命の努力を重ねて兵庫は不死鳥のように蘇ることが出来ました」と感謝の言葉を綴り、記憶の風化が問題となっていることや、防災減災文化発信のため2016年の主要国首脳会議の神戸誘致を進めていることなども述べた。
兵庫県出身の福嶌教輝在聖総領事は、被災者へ追悼の意を表するとともに、震災当時のブラジルからの支援、今回の法要が行われたことに対して政府を代表して感謝の意を表した。
家屋の半壊や負傷を経験した親戚がいること、帰国した際、近所の風景が相当に変わっていたことから震災の凄まじさを極めて直に感じたことなど、当時を振り返った。「我々の使命は、犠牲者となった多くの方々の意思に添うべく、その経験を語り伝え、その後も世界各地で頻発する、自然災害を乗り越えていくことだと思います」と語った。
参列者による焼香、ブラジル仏教連合会会長・菊池顕正氏の法話が行われ閉会となった。
会場入り口では、震災復興の様子がわかる写真展が催された。橋脚ごと横転した阪神高速道路の写真を、じっくり眺めていた千馬昭三さん(87、大阪)に話を聞くと「この写真のすぐそばに住んでいた。震災当時はこっちに移っていたけど、ニュース映像を見てとても驚いた。神戸の建設会社に勤めていた息子は、復興工事も手伝っていた」と複雑な表情で当時を追想した。
震災体験談=直後に食料担いで神戸へ=尼崎で被災した曽我部さん
「朝5時頃、強烈な縦揺れで目が覚めたら、頭すれすれにテレビが落ちてきた」――阪神淡路大震災20年法要に参加した曽我部威さん(80、山形、福島県人会事務局長)は、震災の鮮烈な記憶を振り返る。当時は仕事で尼崎市のアパートに滞在していた。
「揺れは一瞬の出来事だったけど、とても長く感じたよ。揺れも収まって外に飛び出したら、電信柱から木から、みんなひっくり返っていた」。地震を境に、すべてが変った。
その日、尼崎市も震度6の地震に見舞われ、死者49人、負傷者7131人、全壊家屋約1万1112世帯、半壊約5万1千541世帯の被害を被った。
直後に、連絡の取れない社員の安否を確かめるため、リュックに食料を詰め、変わり果てた街を尼崎市から神戸へと徒歩で向かった。
「西宮の被害は大きかった。高速道路もねじれた様に倒れていて、どうしたらあんな風になるのか想像もできない。自然の怖さを、この目で見た」。20年経った今でも、当時の事は鮮明に思い出せる。
曽我部さんは「東日本大震災の映像を見たときは、阪神大震災を思い出してぞっとした。日本は自然災害の多い国だけど二度と起きて欲しくないね」としみじみ語った。