コロニア文学会で『コロニア小説選集』全3巻刊行を決定した折のことであった。ある日のこと、武本由夫さんから電話で「近いうちに杉武夫さんが君の所に小説2集の分担金と参加承諾の署名を持って行くから」と通知をされた。
このコロニア小説選集の掲載作品の作者から承諾の署名と各作者より分担金を会計に振り込むようになっていたのを、杉武夫さんは武本由夫さんの指示に従って私の所へ持って来られるということであった。
いよいよ長年の疑問を解く機会が近付いたと思った。私は落ち着きを失っているのではあるまいかと思うほど、そわそわしていたに違いない。果たして四、五日して杉さんは現われた。
思ったよりも背丈があり、肩幅の広い方であった。神経質な人であろうと想像していたが、私の予想は完全に外れていた。初対面の挨拶を終え、義務的なことも終り少しくつろいだ折をみて、あまり時間を置かず早速切り出した。
「杉さん、私はずいぶん前からあなたに聞きたいと胸の中にある質問をあたためて今日まで持ってきています。幸い今日はその質問をする最良の機会と思いますので、お答えを頂ければ大変幸いと思っています。質問を聞いて下さるでしょうか」と口火を切った。
杉さんは意外なという顔で「どういう疑問か解りませんが、返答できる質問でしたらお答えします、どうぞ」と丁寧に受けて頂き、私は質問をした。「杉さんは1939年のブラジル時報社に『植民文学の確立』と『植民文学について』という二篇の文学論を投稿し、当時ブラジル日系文学界の大御所と言われた古野菊生に見出され全く彗星のように現われましたね。そしてその後のあなたの文学的活動は創作に文芸紙面に作品批評にと、その活動にコロニアの文界はあれよあれよと目を見張るばかりで、古野菊生を措いては誰も一言も出ない状態でしたね。どこまで昇りつづけるのか見当もつかず見とれていました。ところがです。あなたの絶頂期を待たず、第二次世界大戦が勃発し、日本語の出版物はもとより日本語を話すことも禁じられるという事態になりました。この暗黒の時代は約五年間続きました。そして戦争が終わると植民たちは昔の自由を回復することになり、文学界も回復しました。文学賞なんか応募者120名、150名、200名も応募する時代がきました。これは驚くべきことでした。前置きが少し長くなりましたが、そこで私があなたに伺いたいのは、このように盛り返した文学界にあなたはただの一篇も発表していませんですね。文学に対するあの情熱あの執念を思い出すと、何故? 何故? という問いが耳の奥の方で問いつづけています。今日はそのお答えを頂ければ何よりも幸せと思います」と私は言った。
杉さんは少し考えたのちに、次のように答えられた。「私の答えが答えになるかどうかは解りませんが、あなたが期待されているものとは全然異なることもあるかもしれません。次のように答えます。まず、人間はね、男はね、家族を持つ男はね、家族が明日食べる米粒が米びつに無いことを知ったときの辛さ、悲しさ、怖さ、これほど辛く怖いものは人生にはないと思います。このような経験を十年以上も続けると、もう一切のものに価値や意味など認識出来なくなります。言葉を変えていえば、飢餓街道を十年以上さまよった者で、理解出来ないことだと思いますね。答えはそれだけです」。
私は「もし飢餓状況から抜け出し普通の生活に復帰したら、あと何年したら昔どおりの文筆意欲を取り戻すという予感はありますか」と聞きたかったが、問うのを控えた。何か余分な負担をかけるような気がしたのでやめた。待ちに待った杉さんとの会見は、以上のごとくであった。(つづく)
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