それから十年くらい後であった。コロニア詩文会は『コロニア随筆選集(全三巻)』の刊行を決めた。新井勝男君と私の二人の編集担当であった。第一巻は既に刊行し第二巻に取り掛かろうとしたときに、ふと杉武夫さんの事を思い出した。
応募して下さるなら、随筆も文芸の一つであるから、普通通りの価値観、意味も認識し直したことになる。決して決して悪意を以って試そうとしたのではない。私の案内の言葉に悪意のないことに感じられたのか、20日くらいして原稿を持って来られた。
後で開封してみると『朝の散歩』という題であった。私は杉さんが素直に私の案内の言葉を信じて下さったことが嬉しかった。『朝の散歩』は、毎朝健康のために住宅の近くのクワルテロンを散歩している。クワルニロンが小さくあまり運動にならないと思って、すぐ続きの大きなクワルを散歩することにした。このクワルニロンは少し商店街に近寄っているので、もう六時になるといろいろな商人が店を開けたり店内を整理したりで忙しそうに働いている。杉さんはそれらの光景を風物詩のように見た。
しかし散文で表現した一文であった。その随筆選集は2004年出版であるから、90歳前後と考えられる。青くさいことが好きであった杉さんは、私の誘いが嬉しかったと考えている。私は実に好いことをしたと思っている。
杉さんは八五歳頃から俳句を始められたらしい。北海道会館で月に一回行われる俳句会に毎月必ず出席して居られたそうであるが、行きも帰りも徒歩で通っておられたという。住宅の側にオニブスのポントがあり会館の近くに降りるポントがあるにもかかわらず、オニブスで通うことはなかったという。
ところで、かつて創作を書いたり、文学論を書いたり批評論評も書いていた杉さんが俳句に手を出したのはどういう意図からか、私には分からない。まさか俳句を作ることによって文学的意欲を強めるということでもあるまい。とにかく五十の手習いか、杉さんにとっては「九十の手習い」となったことは尊い事実である。ただ、文学作品を書いて発表するという意図を持たなかったのは惜しいことだった。
確か2007年の中頃のことと記憶している。杉さんはサンパウロ文化協会から白寿祝賀会に招待を受けた。杉さんはこういう場所に行くことを好まない性格であったが、出席する気になった。出席すると、右から左から大変丁重なもてなしを受け、そして身に余るお祝いの詞をいただき、自らも九十九歳という年齢をかみしめ、心から感謝感激であった。
杉さんはその直後、白寿会での様子と感謝の気持ちを綴った文を紙上に発表された。こんな待遇を受けるとは想像して居られない様子が文中にうかがわれた。この御礼の辞も、模範にしてよい各文である。九十九歳を自らも堪能されたものと私は想像している。
残念ながら人間は永遠に生きることは出来ない。102歳と6ヶ月をもって杉武夫さんは亡くなられた。大往生であった。日本では昔から『長生きするのも芸の内』という言葉がある。杉さんは芸をもって死から身をかわして生きて来られたのであろう。つまり芸の達人でもあったわけである。(おわり)
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