会場で起こった爆音は低空で豪の上を舞っているらしく、いつになく執拗に患者の横たわる洞窟の空気を震わせた。何かが、起こりそうだ――不安が、朝の回診を始めたばかりの衛生兵たちを襲った。
「編隊でありますか」
外光がほのかに届く病床に横になっている上等兵が怯(おび)えた眼を私に向けた。我々の不安はそのまま患者たちに伝播するらしく、回診の順番を待つ彼らの口から同じ言葉が繰り返された。どの兵も生命の不安の中で諦らめの色を見せていながら、入院の日数を増すにつれてその眼色はどんよりと曇り空のように淀んでいく。
第九○一師団のトラック島野戦病院は、病院とは名ばかりの深い渓谷の両側を削り貫いて並んだ、いくつかの洞窟にあった。その奥は曲がりくねった本遂道と結ばれ、さらにその上下左右に支道があり、どの随道も海に面した出入口には敵の上陸を迎撃するための巨大な砲身が匿されていたり、兵器弾薬、糧秣の類の兵器廠だったりする。
開戦当初に上陸した友軍が、三年余りの歳月を費やして構築した、もぐらの巣のようなトラック島野地下壕はその規模こそ劣るが、機能ではニュウ―ギニアのラボールに勝るといわれる。それは司令部のしばしば行なわれた発表であったから兵たちに自信をもたせた。
ただ、兵たちにとって最大の問題は食料の補給が絶えたことだ。食料が、例え二割減量されたとしても、戦闘行為のないトラック島では兵たちは平均的な健康を維持できるはずである。それが平時の八割以下になってしまったのだ。ここ半年以来、栄養障害患者が続出しているのは、そのためだ。
私の第十六病棟は海岸から最も奥まった、断崖の中腹の洞窟の中にあり、患者を護るには絶好の条件を備えていたが、皮肉にも、患者はトラック島で罹病した少数を除いて、多くは南方島嶋の戦線から送られた栄養障害の、もはや快癒の見込みのない重患で占められ、洞窟には死臭がたちこめていた。
「ここで死んだら犬死だからな。みんな元気を出すんだ!」
患者を励ます私の怒声は、同時に私自身に対するものでもあった。怒声が大きければ大きいほど患者たちの耳には空しく響くに違いないという思いが私に返ってくる。その度に受けとめられない遺瀬なさに臍を噛むのだが、治療の道のない状況下ではそう叫ぶことが唯一の医療行為であった。
濠は爆撃の風圧を除くために極度の曲折を施してある。外光が届くのは、せいぜい五メートル程度だ。その奥に常時八十名近い患者がポトポトと水滴を落とす低い天井の下に枕を並べている。十メートル間隔で裸の豆電球がぶら下がっているが、それは却って侘しく患者の生命の夢なさを感じさせた。
北海道や信州の郷里に妻子を残している兵たちは、あるいは私の怒声をすなをに受けとめ、生への執念を一時的にも燃やそうとするかも知れないが、妻子のない若い兵隊には空念化にすぎない。死亡率は若い者ほど高いのだ。
私は奥の方へ歩を移しながら――元気を出せよ。その内輸送船が入ればテカテカのシャリを食わせるからな――などと、あてもないことを、あたかも確立の高いような調子で叫んだ。濠を進むにつれて尿臭が濃く渦巻いている。私は一人一人の体温と脈拍を調べる。気休めにすぎなかったが、その間に一言でも患者と言葉を交わすことが、彼らを生に引き戻す力になるのだと信じたかった。