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パナマを越えて=本間剛夫=37

「駈けろ!」
 私は上等兵の手を把んで眼下の露出した岩盤を目がけて背を丸めて駈けはじめたが、大小の石塊に足を取られて転びそうになる。気はあせっても足が進まない。五十メートル下に電柱が立っている。すぐその下が司令部入口だった。そこまで行けばしめたものだ。
 電柱は電灯線と電話線で、全島に張りめぐらされている。立木をそのまま利用したり、立木のないところは、鉄棒や丸太やコンクリート製の柱が立っている。何れも迷彩は施してあるが、敵はそれが電柱であることを知っているだろう。
 ともかく、そこまで辿りつけば島最強最大の濠がある。しかし、足場の悪い傾斜面を駆け下りたら、加速度を制御しきれずに転倒して打ちどころが悪ければ敵弾を待つまでもなくお陀仏だ。
 それでも二人は夢中に走った。海上を左に旋回して去った敵機は東海岸から再び三角山を越えて襲いかかるかも知れない。もう、それだけの時間は過ぎているだろう。心はあせったが。足は思うように進まない。二人とも心が転倒しているのだろうか。
 やっとのことで電柱まで三、四メートルの地点まできた時だ。すぐ背後に爆音がした、と思った瞬間、バリ、バリッと音と同時に数十発の弾丸が前の岩盤に火花を散らせた。二人は電柱を中にしてお互いにしがみついた。
 その瞬間だった。意外な光景が目の前で展開した。敵機はガリ、ガリ、ガリッ!と鋭い音を立て、もんどり打ち、百メートル先の木立をかぎ倒して林の中に突っ込んだ。敵はプロペラか翼か架線に引っかけたのだ。林の中からメラメラ真赤な火が見え、つづいてどす黒い煙が広がった。気がつくと抱いていたコンクリートの柱が根元からへし折れ、二人だけで抱き合うように倒れていた。明るい空の下で、それは、まさに白日夢だった。
 間もなく濠の中に歓声が湧き上がり、将校も兵も一緒になってわれ先に濠をとび出し、火焔をめがけて駆け出した。私も後を追いかけようとしたが、体躯から一切の力が抜けてしまったように、立ち上がる気力がなく、呆然と林の上に拡がる火煙を眺めていると、上等兵の体が重くのしかかってきた。
 「おいっ!」
 彼を押しのけようとしたとき、彼の後頭部からこめかみにかけてどす黒い血が吹き出て、顎部を伝って喉までべっとりと染め、上等兵の背を抱えるようにしていた私の右手の指の間からも生ぬるいどろどろとした粘り液が吹き出していた。
 「あっ!」
 私の顔面は、おそらく驚きと怒りで蒼白になっていただろう。
 「おいっ!」
 私は叫びながら、私の背にまわしていた上等兵の腕を外して手首を握ってみたが、既に脈拍がなく、息絶えていた。私は肩に掛けた薬嚢を開け、三角巾と包帯を取り出して傷口を覆ってから、上等兵を抱き上げようとしたが足場が悪く脚に力が入らない。
 やむを得ない。濠まで引っぱっていって、司令部の兵隊の手をかりよう。私は粘る掌を草になすりつけ、上等兵の両腕を握り、よろめきながら、ようやくのことで濠に辿りついた。
 濠の入口の大扉は開いたままになっていた。扉は立木や竹を枝葉のついたまま袋のようにつなぎ合わせたものが左右にあり、いつも新しい蔓草をからませて精巧な迷彩を施しているのだが、その扉は、兵たちが今さきの敵機の墜落を見に出て行ったらしく開かれたままだ。その影に衛兵詰所が見える。