「うううっ!」
老少尉は前こごみになり胸を抑えて唸いた。
私たちは不意のできごとに保然と眺めるばかりで、声を出す者もいない。
実戦に最も縁遠い私たち衛生兵の耳にも、サイパンが陥ちたという噂が入っていた。それは全く根拠のないものだが、電信隊の兵から洩れてくるらしかった。私たちは真実の情報を知りたかった。
少尉は、司令部は真実の戦況を兵にも知らすべきだ、と考えての発言だったに違いない。それが―戦況が不利に展開……―と口が滑ったのだ。命令伝達者は師団長命令のほかは、伝達できないくらい少尉も弁えているはずだ。敢てそれを発言したのは生えぬきの軍人ではない地方人の甘さからだったろう。
その裏面を考えれば、終末的様相を呈している戦況を兵たちに知らせ、食糧不足の不満からぬけさせる方が島の戦意維持のために得策ではないか。秘密主義や欺瞞で、いつまで兵たちをだましつづけるのか。もし兵たちが、近い将来、どうにもならない終末的状況をしったとき、この変則的編成の島の安寧が保たれるのか。この孤島が百鬼夜行の地獄に陥りはしないかと老少尉の真心から出た提言だったのだと推察できた。
アメリカ国民が戦意を喪失しているなどと味方を欺く司令部の態度に老少尉は義憤を感じているのに違いない。あとからみれば、その日は既にサイパンは敵の手に落ちていたのだ。
「本日の命令を終わる。解散っ! 佐藤少尉は残れ」大尉は興奮に青ざめていった。老少尉は恐らく懲罰にかかるだろう。
私はクレゾール原液の瓶を受領して背負い一同のあとに続いた。石川農耕班の曹長が立ち止まっていていた。
「今日は、ご苦労だったな……。上野はいい兵隊だった。残念だった……。あれは、わしと同郷でな……」
曹長の言葉が詰まった。
「はい、福田も、上野上等兵の人柄の良さがわかりました。最期のとき、二人は固く抱き合っていたのであります。福田兵長は上野上等兵を他人とは考えられないのであります」
府向いていう私の喉もかすれた。
衛兵所にはもう上野上等兵の屍はなく、隊から来て、運んで行ったという。私は埋葬に立ち合いたかったが、戦場でそれは許されることではない。
前の方を歩いていた下士官たちが、敵機の墜落現場を見に行こうと相談していた。彼らにも上等兵の死と老少尉の予想される懲罰が気にならないはずはない。戦友の不幸を同情する傍らで、若い女姓の操縦した敵機の残骸に、より強い関心をそそられても、それは咎められるものではない。まして、島最初の事件なのだ。
壕を出ると、数十分前に上野上等兵と必死で蹲った、折れた電柱の箇所まで上がって行った。曹長もあとに続いていた。黒い血漿が岩膚や草むらに散って強い陽の下で固まっていた。曹長は手を合わせて瞑目した。私は血ぬられた小石を拾って袴の物入れに入れた万一、彼の遺骨が郷里に届かないような場合、私が生き残っていたらこの小石を彼の郷里に届けなければならないと思ったのだ。
「行ってみよう。上野とお前を狙った奴だ」
曹長が静かな調子で云った。
曹長のあとに続いて、石ころの傾斜を下りていった。林はすぐそこに見えながら以外に距離があった。林の端に着くと、機体は見えないが、まだ黒煙が昇っていた。火は消えているようだった。林の中から大勢の声が聞こえた。私が一瞬間、敵機がもんどり打って茂みを薙ぎ倒したと見たのは、錯覚だったことがわかった。