そこはゴムの樹ばかりで、その小枝が千切れ飛んでいるほかは、何の異常もないのだった。初め電線に引っかけて減速し、次に柔軟で弾力のあるゴム樹林に突っかけたのだ。地上や海上に突っ込むのとは違って、衝撃度が弱められたために、乗員は死を免れたのだろう。
敵機は一方の翼をどこかに吹き飛ばしており、飛んで来た方向とは反対に機首を東に向け、尾翼を海岸に向けて腹を見せて焼けただれていた。兵隊の声は、もっと遥かに下の方から聞こえた。その方に草むらを踏みわけながらおりて行くと、どこから集まったのか、百名近い兵たちが円陣を描いて口々にわめいていた。
円陣の中に敵兵がいるらしかった。人垣を通してみると師団軍医部の顔見知りの中尉の背中が見え、その向こうに三名の衛生兵の顔が蹲っており、一人が敵に跨るようにして人工呼吸を施しているのだった。
敵の顔は見えないが投げ出された赤い短靴が見えた。「お前らは、いつまでさぼるつもりか。早く任務につけっ!」
中尉は周囲を見廻わして叫んだ。
「お前らの中に衛生兵はいないか。衛生兵は残れ」
兵たちが未練がましく立ち去ったあとに私だけが残った。私は患者に近づいて行った。敵はまさしく女だった。黒髪に小麦色の顔が眼の下にあった。
ラテン系だ―と私は直感した。
「中尉どの、福田が代わります」
人工呼吸を施して衛生兵は実地の経験がないらしく胸部を上から圧しているだけなのだ。軍医は助言もせず、傍らでそれを眺めているのだ。衛生兵施術法に書かれている、その通りの施術では呼吸を回復し、心臓の機能を興奮させることはできない。
私は敵の両足を跨ぎ、恥骨のすぐ上から腸を胸郭の中に押し上げるようにした。女は初めて薄く瞼をあけ、半ば口を歪めた。瞬間甘美な思いが脳裡をよぎった。中尉は脈拍を見ている。私は力を入れてその作業を続けた。ぽとぽとと滴り落ちる額の汗がボタンを外して開かれた女の薄い下着を濡らした。私がその所作十五、六回も繰りかえしたとき、女は幽かに眼を開いた。中尉が掌で女の頬を叩いた。女は喉の奥から―う、う、うう―と、うめきとともに息を吐き、続いて眼を開いた。
蘇生したのだ。
「運の強い奴だ」
軍医も額の汗を拭った。
この軌跡のような事実は信じられないことではない。私がまだブラジルにいたとき、敵に襲撃された日本の航空将校が、ヨウスの流れに突っ込んだ瞬間、機体がふわりと水面に浮んで傷一つ負わなかったという日本の新聞を読んだことがある。その将校の名が船田正で栃木中学で私と同級だったことを、まだ昨日のように思い出した。
その時、木立ちの中から数名の兵が姿を現した。墜落したはずのもう一人を探しに行っていた兵たちなのだろう。
「軍医どの、敵は見当たりません。どこにも血痕も落ちていません」
一人が報告した。
私はクレゾールを背負い、再び傾斜を登りはじめた。上野上等兵の流した黒い血には蝿が群がっていた。瞑目してそこを通りすぎた。時計を見ると、いつもより二時間も遅れていた。三浦軍曹の不機嫌な顔を脳裡に描きながらゆっくり歩を移した。背にしたクレゾール液が瓶の揺れにまかせて微かにコロン、コロンと鳴った。それは閉ざされた孤愁の響きだった。