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パナマを越えて=本間剛夫=45

 続いて情報を申告しなければならなかったが、報告すべき事項が今日に限って多すぎた。しかし、省略するわけにはいかない。
「どうしたのか、お前、その血は?」
 軍曹は初めて私の上衣から袴にかけてべっとりとこびりついた血に気づいたのだ。私はそれに答えるかわりに、午前、患者を連れてきた石川農耕班の上野上等兵の最期の模様、内地から三隻の潜水艦が糧秣を運んできたこと、野菜種子が各隊に配給になったことなどを報告した。当然墜落した女米兵のことに触れたのだが、三浦軍曹は心を動かれたようすもなく、椅子の上にあぐらをかいたまま腕組みをして黙って聞いていた。私は軍曹と向い合って椅子に腰をおろした。最後に三角山の上から見た東海岸の潜水艦のことに触れると、軍曹は急いで電話の把手をとり、軍医部を呼び出した。
「第十六病棟、三浦軍曹報告っ! 緊急だぞ、もたもたするなっ!」
 軍曹は相手を怒鳴りつけた。
「第十六病棟命令受領者、福田兵長帰営の途中、三角山稜線より、東海岸崖下に潜水艦数隻を発見、以上。分ったか、復唱しろ!」
 兵隊やくざは、相手の階級も姓名も聞かず、復唱させると把手をガチャンと置いた。
「福田、トロいぞ、てめえ、女のことなんかどうでもいいんだ。肝心なことを第一に報告するもんだ」
 軍曹は私を睨みつけ、そしてつけ加えた。
「おい、てめえ、その女と何か話したのか……。別嬪だったか。おめえなら、話ができたろうに……」
 やはり軍曹は女に趣味を持っていた。無関心を装ったのは、私が女の上に馬乗りになって人口呼吸を施したことに反感と妬みをもったからに違いなかった。私は軍曹の心中を察して思わずにやりとした。それがいけなかった。
「おい、何がおかしい!」
 軍曹の手が伸びて私の頬をしたたかに打った。
 私は軍曹の癖を知っている。何かのちょっとしたはずみに心の平衡を崩し始めると、もう彼自身どうにもならない暴力が内面から噴き上げて制御できなくなってしまうのだ。彼は机を私の胸に押しつけ、私は立ち上がるいとまもなく椅子のまま後ろに仰向けに倒れると、机の角がみぞおちに落ち、突き刺さる激しい痛みに声も出なかった。続いて、こめかみのあたりを蹴られる音がして私はそのまま失神したらしかった。気づいたとき、同僚の上等兵の顔が私の頭の上にあり、私は敷布を被って、寝床に横になっていた。
「気がつかれましたね。少し寒いでしょうが明朝まで我慢して下さい。上衣と袴とじばんを大島が洗濯しております」
 同僚は医務室に続く我々の三人部屋まで私を運んでくれ、私は褌一つで寝かされていたのだ。
「有難う。世話をかけた」そういって起き上がった。
 三浦軍曹を襲った暴力の妖怪はもう退散してしまっただろう。私は今朝の中村中尉と新入りの患者が気がかりだった。同僚の話によると中尉は寝床の乾燥を断って黙りこくっており、新人患者は時おりしゃくり上げて泣いているという。私は同僚が、もっと休息するようにと勧めるのを聞き流し、腰に敷布をまきつけて部屋を出た。三浦軍曹に詫びを入れなければならない。私が、彼から見れば些細なことで無断で数十分も寝てしまったことを、だらしのない奴と蔑んでいるだろう。