ブラジルに帰れないことが確実になると、腰を据えて日本での生活を考えなくてはならない。日本で中学も出ていない者の就職がどんなものであるか私には想像できた。就職を選ばなければ、どの軍需産業も労力を求めていたから、生きてゆく道は開かれている。
しかし、それは最後の手段だ。兄の経営する病院の受付、薬剤室の手伝いでもいいではないか。そんなこと思いめぐらしている間も、どうにも腑に落ちないのは陸軍の参謀本部の態度であった。パナマ駐在の武官は万一の場合、私の一身の処置について何も考えていてくれなかったのだろうか、私は確かに武官から委託された任務を果たした。
それに対し陸軍省は何の保証も与えない。もし、パナマで私の携えたダイアが敵の手に渡ってしまったとしたら、私は生きてはいられなかったろう。私という一つの生命が軍需品に賭けられたのだ。
その生命が虫けらのように見向きもされないとしたら、軍部とは大和魂、殉国、醜の御楯などと美辞を並べて民衆を煽り、その裏でししむらを頬張って鼓腹する妖怪にすぎない。しかし、そんな私の罵詈雑言が、空高く聳え立つ堅牢無比な砦に対してどのような力があるというのか。もし私が参謀本部に出向いて、パナマ駐在武官の命令によって、命をかけて帰国した男に対する保証を要求したらどのようなことになるのだろう。
しかし、その要求を参謀本部のどこの、誰に訴えるべきなのか。相手が「そんなことは感知しない」と知らぬ存ぜぬの狸を決めこんだら、どうなるものでもない。考えはそこに及ぶと、私は自分の迂闊さを悔いるだけで、はたと行き詰ってしまう。ダイアの包みは、横浜の波止場に出迎えた二人の将校に手渡した。
二人の将校が、どこの誰なのか、相手は名乗らなかったし、もちろん受領書を要求するような性質のものではなかったから、何の証拠もない。武官はパナマにいる。日光丸の船長や事務長の所在は探せばさがせないこともないだろうが、探し出したところで、彼らが参謀本部とどれだけ深いかかわりがあろう。
今となっては、ブラジルに帰れる日まで、どのような手段によってでも生活していくだけだと、ブラジルに帰ることを断念しながら、さほど突きつめた心境に陥ってはいなかったのである。
そのころ、ふと私は、学生時代、日本から来た地質学者と鉱物学者たちの通訳でアマゾンを歩いたこと、その学者たちの一人山口教授が仙台だったのを思い出し、在職を確かめてから、事情を書いて助力を懇請した。幸い教授からすぐ返事が来て、会いたいから、すぐ出て来い、というのだ。駅前の広場から続く大通りの街路樹の下をくぐり、地図を頼りにたどりついた大学の教授の部屋は、木造の物置きのようにただ広く、周囲にしつらえた本棚と標本棚が雑然とし、棚に並べきれない土とも石ころとも見分けがたい塊りが木函やダンボール函に詰められており、足の踏み場もないほどに部屋を占領していた。七年ぶりの再会だった。
山口教投は私を学長室に導いた。ブラジルの大学の学長室が明るい水色の大理石であったのに比べて、この国立大学の学長室は何とお粗末なのだろう。窓の外の植えこみのためもあったが、部屋はうす暗く、教授たちの服装をみすぼらしくしていた。そのみすぼらしさの中に深い蘊奥を漂わせている。これが東洋の学者なのだろう、と私は襟を正した。
「経済学部の研究員に欠員があるので、条件の納得が得られれば来てもらいましょう。給料は九十八円。その他に、外部からの翻訳、原稿執筆の仕事もあり、それは臨時収入になります」
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