第二部
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夜に入るとともに爆撃は止んで、濠の中は天井から落ちる水滴のほかには何の物音もしない地底の静寂が始まっていた。
眼をとじると、ゴム林に墜落した女子航空兵の顔が浮んだ。上野上等兵と私を襲った憎むべき敵であるにも拘らず、私にはそれほどの憎悪の念は湧かなかった。上野の死は戦争という大きな運命の下の不幸な出来ごとだと思うと、個人に対する怨讐の感情が燃えないのであった。
彼女もまた戦争の命令ずるままに、日本兵を狙撃したにすぎない。もう一人の敵兵は、どこにいるのであろう。東海岸に浮上したあの潜水艇に救われて、もうこの島を離れているのではあるまいか。司令部医務室に入った女はどうしているだろう―。
三浦軍曹に足蹴りされたこめかみにはまだ疼痛が残っている。私は草布団に横になった。
今日一日の出来ごとが秩序もなく頭の中を去来し、間歇的に襲う朦朧とした意識の深みの中に沈んでいく自分を遠くに感じている。
東海岸の絶壁の下に、見を寄せ合うようにへばりついていた潜水艇は、敵だったのだろうか、友軍だったのだろうか。谷川の茂った草むらの中に、幽かに感じた人の気配は、果たして敵だったのだろうか。なぜ、あの時、誰も何もなかったのか。もし、敵だったら、俺が撃つ前に、撃たれてしまう、という怖れからではなかったか。
翌朝早く私は起き上がった。音を立てないように心を配りながら濠の外に出た。
私は谷川に続く小径を下り始めた。葦の類が小径を挟んで生い茂り、私の体はその中にすっぽりと匿れてしまう。踏みならされた湿った土の上に、夜露をためた葉の水滴がパラパラと落ちて私の袴は瞬く間に濡れた。
豪州圏内からソロモン群島にかけて二年余になる島の生活から、私たちには動植物に対する特異な聴覚と臭覚が養われていた。きのうの草むらの気配は、とかげやねずみや鳥の類ではない。まぎれもなく湿地を踏む人の足音であった。私はきのうの気配りを感じろうと立ち上がり、本能的に耳をすまし、鼻孔をふくらまして乱れた葦の間を透化して見るようにした。何の音もない。洗濯場の板に跨り、音を立てないように水を掬い上げて飲みほした。冷たい水は腹一杯に浸みわたった。きのうの音は僅か数メートルの川下であった。
私は一握りの葦をたよりに握りしめて斜面を下りはじめた。斜面は濡れていたが、びっしりと敷き詰めた根が滑り止めの役目をした。二、三歩進んだところで、また葦の幹を握り、抱えるよう身を移していく。ロッククライミングの要領であった。はっ!として、息を呑み込んだ。すぐ目の前に空間が開けたのだ。それは、確かに人間が横になった形で葦が薙ぎ倒され、その周囲にいくつか乱れた足跡がある。
やっぱり……。私は蹲り、倒れた葦に掌をあててみた。温もりはなかった。きのう操縦席から叩き出されたから航空兵に違いない。私の胸は早鐘のように鳴り、もし、私が昨日不用意に誰何していたら、私か敵か、何れかが負傷したか生命を絶っていただろう、という思いが走った。助けなければ……。
恐らく、北海岸のゴム林を伝い、この谷川に沿って登って来たに違いない。敵も逃亡生活に水が最も大切なものであることを知っているのだ。