その時、ふと、かすかな水の流れのような音を聞いた。それは日本の秋の草むらに鳴く鈴虫のようなチョロチョロという音であった。じっと耳をすました。どうやらそれは蔓のカーテンの奥から聞こえてくる。カーテンの前まで戻り、耳を押しつけるようにした。やはり水の音はその中の地底から湧いていた。私は再び横になり、耳を地面に当てた。音はまさに渓流のせせらぎであった。
この水は、どこに流れていくのだろう―ふと、この樹林の下が、十六号病棟の傍らを流れる谷川の水源になっているのだと直感した。そしてカーテンの奥に空洞があることを確信した。私は立ち上がって、足を早めた。いつもより一時間も遅れていた。
三浦軍曹に師団命令を伝達すると、
『シャリが食えるのはありがてえが、女はどうした』期待した女のことに全然触れない復誦に軍曹は不満なのだ。軍曹は「糞っ!」と云って舌を鳴らした。
私は患者の間を一巡して明日、白飯が食べられることを伝えた。どこからも反応は起こらなかった。私の看護を断った中村中尉も少年兵も眠っていた。
どろどろのスープのような雑炊がすむと、私たちは横になった。今日は一人の死者もない珍しい平穏な一日だった。私が蔓のカーテンを発見し、そこに敵兵がひそんでいるのではないか、という希望以外には……。
「アメリカ人捕虜は、どうなりましたですか」
大島と細谷も私のニュースを楽しみにしていたのだ。
「それが、何の発表もない。司令部の兵隊にきいても知らない、というのだ」
「知らないなんて、おかしいです」
大島もぼやいた。敵兵、しかも若い女捕虜の噂は全島の将兵の関心事の筈だ。その経過を匿し通そうとする司令部の考えがわからない。この島前代未聞の大事件なのだ。
「師団のえらい人がうまいことやっとるんかな」
細谷が上目づかいに私を見て笑った。
以前から私たち三人は、勤務時間が終われば階級を捨てることにしていた。まして、現在のような状況で人間性を殺し合ったつきあいには退屈していた。制度のみに頼る秩序の維持など、どんな価値があろう。
二人は私よりも七、八才は若かったから私を兄貴扱いしたが、私にも信頼のおける弟たちであった。「兵長どの、女はシャンだったですか。いくつぐらいの?」
細谷が股いたずらっぽい眼を向けた。昨夜は私の健康を気づかって抑えていた二人は、溜めていた質問を次々と浴びせかけた。その時、不意に私の脳裡を意外な意識が横ぎったのだ。私が人工呼吸を施している間、女についてとり立てて記録に残るような印象がなかったにも拘らず、女の姿態が二重映しで脳膜の底に甦ってきた。
女の上衣のボタンを外したその薄い下着の中の豊かな胸のふくらみや、顔の輪郭や肌の色が私の記憶を呼び戻させたい意志をもつものかのように私に訴えかける。どこかに残していた遥かな時間の模糊とした空間を越えて、その姿態が眼の前に迫ってきた。眼をつぶり耳をすますようにして記憶を呼び覚まそうとした。
外人女との接触……。最初はインドのゴアであった。アフリカのロレンスマルケス、それ以後の接触は、コーチに連れられて行ったメキシコのエンセナーダの女……。そうだ。エンセナーダのあの女だ。名も知らずに別れたあの時のあの女だ。あれはアメリカ人だったのか。しかし、あの女がゴム林に墜落した女だという確信はない。どの女の記憶も靄のように薄らいでいる。