ホーム | 文芸 | 連載小説 | ガウショ物語=シモンエス・ロッペス・ネット著(監修・柴門明子、翻訳サークル・アイリス) | ガウショ物語=(13)=底なし沼のバラ=<5>=「あの花は?」「娘のだ!」

ガウショ物語=(13)=底なし沼のバラ=<5>=「あの花は?」「娘のだ!」

 その時、旅慣れて、広い世間を見た来たことを自慢げに話す一人のガウショが、わしの上着の袖を引っぱって、耳元で囁いた。
 「シッコンは娘を追い回していた。……やつは家にいなかったし、俺たちとも来ていない。娘もいない……。なあ、仲間、どう思うかね?……」
 「フン!」わしはそれしか答えなかったが、男の言葉が耳の底にこびりついていた。
 だが、そいつは肝のすわった奴で、自分の考えをだれかれに話した。そのうち、だれもが男の意見に同調してガヤガヤ言い出し、とうとう一人の間抜け野郎がそれをマリアノに伝えたもんだ。
 マリアノはシッコンを探すかのように周囲を見回したが、そのあと吐き気をもよおしたみたいな様子で、腹立たしげな仕種を見せた……。
 娘は自分にぞっこん惚れ込んでいるあの野郎と逃げたと、本気で考えているのだろうか……そんなこともあるかもしれない……あいつが娘の周りをうろついていたことは、みなが知っている。
 娘がまったく気を許していなかったことも。それなのに、何で今になって、急に駆け落ちなどしたのだ?分らないのはそれなんだ!……。
 同時にまた、べつの疑問が頭をもたげてくる。――だれが祖母さんを殺したんだ? 何のために?……。
 男たちがこうして頭を悩ましているとき、女たちのわめき声が聞こえてきた。歩いて農場に向っていた女どもがタナジア母さんに出会ったんだ。
 女連中が着くより早く、先頭を走ってきた雑種の犬どもは、グアバの木の下に逃げ込んだ。好奇心いっぱいのすばしこい子どもたちは、何か獣でもいるのかと集まってきたが……びっくりして後ずさりした。顔をそむけ、泣き出すもの、言葉もなく、ただ沼地を指差すもの……。
 女たちが目にしたのは……沼にはまり込んだシッコンだ。泥にはまり込んだシッコン、そのすぐ先に、掻き回された泥水に、真赤なバラが、バラの花が浮かんでいた。なぜなら、娘は泥水深く沈んで、溺れてしまったからだ。
 なんで……どうして……シッコンの所為(せい)か?……乱暴を働こうとしたシッコンを恐れたためか?……窮地にはまった悪党を、ただ呆然と見守る女たち、その中で、一人の気丈な女が「この恥知らずの犬め!」と叫んだ。――その時だ。やつのお袋さんが、溢れる涙を抑えて訊いた。
 「シッコン、お前、どういうことなんだい?」
「嵌っちまった……拍車が。……投げ縄を!」
「お前!……情けない!マリア・アルチナはどうしたんだい?……」
「そこだ!……そのバラの下……」
 ちょうどこの時、丘の上の家々から叫び声が上った。泣き声、呼び声を耳にして、わしらは急いで坂を下りた。マリアノは目を血走らせ、イノシシみたいに歯をガチガチ鳴らしながら。
 沼までやってきて、あの卑劣な女たらしのあり様を見ていると、一人が声高く言った。
 「縄をなげて、沼から引っ張り出してやろうじゃないか!……」
だが、マリアノが、
 「待て!」と叫んだ。それから、嵌り込んでいる男に訊ねた。
 「何で、ばあさんを殺した?……」
 「しらねぇ!」
 「マリア・アルチナはどこだ?」
 「しらねぇ」
 「貴様の前の、その穴はなんだ?」
 「しるもんか!」
 「じゃ、あのバラは……あれも知らんというか?……」
 「ああ、それは、知ってるさ! あの娘のだ……ばあさんも、俺がやった……それがどうした?……」
 「貴様の頭をぶち抜いてやる!」
 「やって見ろ! 拍車さえはずせたら!」
 マリアノはベルトからピストルを抜くなりぶっ放した……が、弾は外れた。二発目。弾はシッコンの肩に当たり、男は痛みに唸り声をあげて身をよじらせた。体を安定させようとしたが、いい方の腕は折れ重なった水草に支えを求めて泥に沈んだ。この荒々しい動きと衝撃で、沼全体が揺れ、不気味な音をたててぶくぶくと泡立った。
 マリアノはもう一丁のピストルのげきてつ檄鉄を起こした。シッコンが怒鳴った。
 「殺せ! 俺はやれなかった!……だが、あの軍曹にも、もうできん!……」
 その時、シッコンの母親がマリアノの膝に抱きついた。伝道師がロザリオの十字架を高く掲げると、そのキリスト像をピストルの筒先に差し込んだ。マリアノは腕を、少し……また少し、下ろした。そして、ついにピストルを泥濘に放り投げた。と、突然、杭から解かれた競走馬みたいに飛び出し、草地を走り抜けて泥沼に飛び込んだ……。
 そして、半ば歩いたり、半ば四つんばいになったり、倒れたり、腕で水を掻いたり、沈んだり、浮き上がったりして、全身泥まみれになりながら、シッコンのそばまで辿りついた。
 それから、死んだ馬の体の上に――恐らく――足を踏ん張って、卑劣漢に飛びかかると、泥のしたたる両の手でのど仏を締め上げた……押さえつけ、締め付け……後ろへ……後ろへと押していき……ああっ! 組み合ったまま滑って泥沼に落ちた。一本の脚が空を切った――拍車を解かれたシッコンの脚だ。