『十年史』で「薄荷国賊論」と単純化されて表現されたものは、戦中に獄中で吉川が書いた古い文体の文書のことのようだ。『日本移民八十年史』(編纂委員会、91年)によれば1944年10月に書かれたもので、186~190頁に全文が掲載されている。
その中で《「メントール(薄荷)」の用途を知るにおよび驚愕、窃かに本国政府の意見を正そうとする某氏の無知、不見識、実に笑えない話だ》(現代語訳)と書く。
当時噂されていた「薄荷と絹が米国に輸出されて軍事利用されている」という説を明らかに是認し、それに手をこまねているコロニア指導者階級を糾弾する内容だ。
さらに《越権行為と思われて会社を首になっても、ブラジル政府のタブーに触れて獄舎の人になったとしても、これは日本男子の本懐である》(現代語訳)とし、警察に捕まる行為まで薦めている。
――伯謡会でも家族にも見せなかった、軍人吉川の顔がここにのぞいている。
この文書の結論は、最初に「判決」として書かれている《在伯邦人は戦後本国または大東亜共栄圏内に移るべきだ》との主張だ。この考え方が臣道聯盟発足時(45年7、8月)に基本路線として採用され〃吉川精神〃と呼ばれた。
だが、『八十年史』によれば吉川文書が書かれたのは1944年10月だから、よく考えれば「1943、4年頃、マリリア周辺の蚕小屋焼き討ちや薄荷栽培農家への脅し」はそれ以前であり、その《指導理念になった》というのは時系列的には少々おかしい。
「ブラジル勝ち組テロ事件の真相」(2007年、醍醐麻沙夫、以下『真相』)は、渡真利の日記の内容として《終戦の二年前、つまり昭和十八年(1943)の七月十五日にはじめて吉川と会い赤誠会意見書を手渡した。数日後にまた会い、意見書を読んだ吉川の熱烈な賛同をえた。そして本格的な活動を開始するべく八月二三日に家族をつれてサンパウロ市へ引っ越している》(27頁)と書いている。ここから赤誠会を元にした興道社の活動が始まるとしている。
つまり、渡真利が1943年に吉川から賛同をえて、そこから焼き討ち活動が本格化した可能性を指摘している。だが、どのような〃賛同〃だったのか。
『真相』56頁には《吉川が(誰からにせよ)その話を聞いて「そのような、アメリカを利するものであれば自粛してもらいたい」程度の同意をあらわしたことは考えられる。それで「自粛論」に箔をつけるために吉川の名が利用されたかもしれない。吉川の関知しないところ、つまり地方で、自粛論はいつのまにか防止論になり撲滅論になった(おそらく渡真利の赤誠会ははじめから撲滅論だった)》との解釈が書かれている。
〃賛同〃したことで、名前が利用され、結果的に『プロセッソ』(101頁)の吉川調書にも《パラナ州でのサボタージェンを組織した責任者として、44年9月から45年11月まで拘禁されていた》という事態になった。後戻りのできない暗く、長いトンネルに突入してしまった。(つづく、一部敬称略、深沢正雪記者)
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