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パナマを越えて=本間剛夫=57

 雑嚢はくたくたにくたびれていたが防水のために全く水分を吸わず、マッチはすぐに焔をだした。辺りが僅かに明るくなり、垂れ下がる無数の木の根の編目の向こうに、いくぶん下り坂に傾斜して人間一人が這い入るには、さほど困難ではなさそうな孔が黒く口をあけているのが見えた。
 しかし、その中にも細い毛根を生やした熔樹の根が鍾乳洞の石筍のように垂れ下がっているのだろう。渓流の音が聞こえて来た。私は昨日と同じことを叫んで「ブラジル人だ」と二回繰り返した。応答はない。
 垂れ下がる障害物を伐り払いながら洞ににじりよった。洞の手前で雑嚢をおろし、上衣も脱いで袴だけになった。ローソクの灯がゆれて時おり消えそうになった。洞屈のなかに微かな空気の流れがある証拠だ。私は帯剣を握り匍匐前進した。
 洞は下り坂で、曲線を描いて伸びていた。時おり、水滴が背を叩いた。十メートルほど行ったところで洞は急に狭くなり、土石が天井に届くほどに盛り上がって行手を組んでいた。辛じて頭が入るほどの隙間があいているが、それがどこまで続くのか、ローソクの光はその僅か数メートル先きまでしか届かず、私はそこで一休みすることにして耳を澄ませた渓流の音は更に近くなって、手の届くところにあるように感じられた。
 どうやら、真下からきこえてくるようだ。洞穴は潜ってきたもののほかにもあって、恐らくもぐらの巣のように掘られているのだろう。私はここまで来たことが徒労だったのだと思いはじめた。どんなに工夫しても人間がもぐり込める洞ではない。
 急に肘と膝が痛み出した。ゆっくり体を廻して仰向けになったが、それは却って苦しくした。全身の血が喉から頭に集中し、内臓が胸を圧して呼吸さえもくるしくした。私は再び腹這いになって後ずさりはじめた。僅かな傾斜なのだが、尺とり虫の格好で逆行するのは体重がすべて両肘にかかってくる。
 痛む肘をかばうために掌に体重をかけ、背を丸めて屈伸させる動作を繰り返した。ようやく入口まで辿り着いたとき、深い空しさに襲われた。
 もし、この洞窟に潜んでいると仮定しても、編目のような蔓草を伐らなければ一歩も中に入ることができないことが確かな以上、はじめから徒労な明らかだったのではないか。ほかの可能性を考えるべきだったのだ。
 外はスコールが止み、カーテンの窓から斜めに西陽が射しこんでいた。肘も膝も皮膚が破れ、細かい土砂がへばりついていた。
 私はあぐらをかき、腕を組んだ。谷川を遡って、水源を探る方法がもっと自然な考え方ではなかったのか。最も安全な匿れ場所は、わが軍の最も目の届かない、いわば盲点にもぐり込むことだ。
 第十六病棟を島の最も安全な地点として選んだのは最初から、両側の崖に挟まれた渓谷が注目されたからであった。しかも、その下を流れる谷川の上流は地形の厳しさから誰も足を踏み入れた者のない天嶮である。
 谷川の狭間を登ろう。三角山の頂上に重点を置いたのは、葦の間に残した靴跡がその方向に向いていたからだったが、それは一つの偽装だったのだろうか。しかし、樹林の下に自然の洞窟の存在を確かめたことは全くの徒労とは思わない。この洞窟から水源地へと連想が発展したのだから、収穫と云わなければならない。