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連合軍にとって、二年前のミッドウェイ海戦は勝敗の流れを変える重要な意味をもっていた。その勝利は神国日本の不敗という信念を砕き、連合軍に積極的戦略をとる勇気を与えた。第一、第二のソロモン海戦で戦果をあげてから急ピッチでギルバート、マーシャル、マリアナの諸群島を手中にし、硫黄島を一ヶ月の攻防戦の後に陥れた。
それから五ヶ月間、我々は疑心暗鬼の中で戦意を失っていたのだ。そして今日の敵が沖縄に上陸したという発表は、もう決定的な日本の敗北を意味していた。通信隊の老少尉が詳細な戦況を発表すべきだと主張してリンチを喰ったのは、あの時、彼は既に沖縄戦線の模様を知っていたのに違いない。
敵が沖縄に向かったことによって、我々がこの島にとり残され玉砕を免れるのだろうか。本土はどうなるのだろう。
三浦軍曹に沖縄に敵が上陸したことを報告した。彼はいつものようにあぐらをかき、腕を組み、全く表情を変えず、空間を見詰めていたが、しばらくして重く低い調子で口を開いた。
「アメリカ女はどうなったのか。それからお前が見つけた東海岸の潜水艇はどうしたのか。司令部は何とも言わんのか………」
彼は、それが私の怠慢でもあるかのように私にたたみかけた。
その夜、軍曹の命令で、我々衛生兵はじめ、患者全員は正真正銘の銀しゃりが供されたのだが、雑炊や重湯に慣らされた胃袋に、銀しゃりの味は決して旨いしろものとは云えなかった。我々がもし内地に無事帰還した暁にはと、唾を呑み込んで憧れた銀しゃりは、歯に粘りつく妙に甘い匂いがするだけだった。
患者も喜ばなかった銀しゃりは残飯となって翌朝は糊のような粥になった。軍曹は朝食を済ますと農耕班の少年の傍らにつききりで看護した。俺が直してやる、と断言した責任を果たすつもりなのだろう。少年は専従の待医を抱えているようなものだ。
「原隊に帰りたい」と泣いた少年兵の素直さが兵隊やくざの琴線に触れたのだろうか。軍曹がどのような家庭と社会環境のもとで成人したのか知る由もなかったが、軍曹ははじめて少年の看護に生き甲斐をつかんだのではないだろうか。
そうだとすれば少年兵は頑迷な軍曹に初めて感情の灯をともしたことになる。そのひたすらな軍曹の看護ぶりは私たち仲間の心をも温めた。
軍曹が殆ど事務室にいない日が続いた。それは私にとって好都合だった。私は命令受領の合間に二日にわたって谷川の上流を偵察したが、途中の岩場に阻まれて、それから上に登ることができずに引き返していたのだから。
その翌日は思いがけなく命令受領に出かけようとする正午から爆撃が始まった。爆発音が島をゆるがし、大気を裂いた。秒刻みに落下する爆弾はのほかに焼夷弾を島一杯にふり撒いた。敵は樹木も草むらも砂礫の山も、兵隊が丹精こめて耕作した甘藷畑もすべて破壊し焼き尽くしてしまおうというのだろう。濠の天井や壁面が崩れ落ちるかと思われるほどの石と土の塊が、鈍重な音を立てて容赦なく瀕死の患者の上に落ちた。力を失った患者たちは辛じて毛布の下で体を海老のように縮めていた。
私は細谷と大島に、負傷者がないかどうか調べるようにいい、這うようにして薬品箱のある事務室にとび込んだ。