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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(10・終わり)=二つの名器が奏でる調べ

親族に囲まれた晩年の吉川(右手前、早田家所蔵)

親族に囲まれた晩年の吉川(右手前、早田家所蔵)

 『伯謡会の回顧』(84年)で鈴木威は《私は小鼓を二丁持っています。一丁は母の親ゆづり、もう一丁は脇山大佐が凶弾に斃れる数日前、吉川中佐の手を経て私に贈られたものです》(108頁)と書く。
 終戦勅諭に署名した時から脇山は覚悟を決めていたのかもしれない。だから、大事な小鼓を鈴木に贈った。でも吉川を通して贈ったということは、友を死の直前まで信じていた。脇山暗殺事件の実行者の日高徳一も「脇山大佐は立派な態度だった。我々は臣聯と関係なく勝手にやった」と明言する。吉川がその計画を「知っていた」ことはまずないだろう。
 事実かどうかは別にして『プロセッソ』のDOPS調書1296号には、渡真利の署名がある臣聯推進部の下部組織である天誅組や挺身推進隊に関する書類を、吉川は尋問中に初めて見たとある。《年寄りが推進部を管理するのは不可能だ。(中略)推進部があることは知っていたが、渡真利成一が進めていたサボタージェンやテロ行為の実行組織「特行隊」の設立や計画に関して、初めて認識した》(315頁)と書かれている。名前だけで、蚊帳の外に置かれていた。
 鈴木威は大鼓に関しても《ブラジルでたった一つ、ほんとうになる名器です。これは吉川氏が八十八歳になられた時「私はもう終わりが近いからこの太鼓を貴君に差上げます。どうかかわいがってやつて下さい」と息女さんを通じて送られました。終戦の時のあの不幸な悲劇の両主役から贈られた大、小鼓はいつまでもブラジル能楽界の貴重な品としてのこり、妙なる調べを奏でつづけることでしょう》(同108頁)と書いた。
 醍醐が加筆修正した『勝ち組アンシェッタ島抑留記』(原題獄中回顧録、吉井碧水著、1952年、手記原稿)に《吉川は出獄後は頭を丸めて僧侶のすがたとなり、日夜、脇山の菩提を弔う日々をすごしたと、娘の高子さんが語っている》(51頁)とあり、辛い日々を送ったようだ。
 74年に宝生宗家から本間英孝師が来伯公演した際、鈴木らの地謡で八島の「キリ」の仕舞を舞った。おそるおそる地謡を演じた鈴木らに同師は《海外で多くの会がありますが、御地の宝生流のレベルは非常に高く、日本でもあまり見られない存在です。お世辞でも何でもありません》とコメントし、鈴木は《思わず涙が出ました》(同109頁)とある。
 鈴木の父暢幸が39年に来た後、吉川が懸命に音頭をとって厳しく教えた成果が《日本でもあまり見られない存在》だと高く評価された。
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 早田さんは吉川家で始めた洗濯業を続け、サンパウロ市スマレー区ヴィラ・ポンペイアで独立し、子どもを育て上げた。「吉川さんは最後の頃アルツハイマーのようになり、家族が誰にも会わせなかった。64、5年頃に亡くなった」と思い出す。数奇な人生に幕を閉じたのは65年なら享年88。まさにこの頃、大鼓を鈴木に贈り、亡くなった。
 臣聯理事長を引き受けたのは事実であり、周囲が引き起こした事件に対する管理責任があったことは言うまでもない。肩書がゆえに祭り上げられたとはいえ、吉川の実像は単なる農業移民であり、彼もまた時代の激流に翻弄された一人だ。
 吉川と脇山は逆の方向に担ぎ出されたが、大鼓・小鼓が一つの〃妙なる旋律〃を奏でるように心の中では同志、実は微妙な違いだった。勝ち組も負け組もコロニアという「同じコイン」の裏表だったことを象徴する親友関係ではないか。
 殺気溢れる暴風雨が吹き荒れる台風の目には、ぼっかりと晴天が広がる――吉川はそんな存在だったのかもしれない。(終わり、一部敬称略、深沢正雪記者)