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特別寄稿=『一粒の米死なずば』=感慨深く読みました=中田みちよ

ニッケイ新聞編著、無明舎刊(50レアル)

ニッケイ新聞編著、無明舎刊(50レアル)

 レジストロは、1955年、私たち家族がブラジルに来てはじめて足を踏み入れたところである。草原の中に一軒ぽつんと立つ土壁のあばら屋を見て呆然とし、夜、家族がそれぞれに声を押し殺して泣いたところである。
 レジストロ地方入植百周年を記念して出版された『一粒の米 もし死なずば』を読みながら、感慨深かったのもその故である。最初、二部に入った私たちは、町に近いせいもあって、お菜に困った母親の言いつけで、町までマンジュバを買いに自転車でいった…。4キロほどの道のりを、誰も通らないときはさっそうと、遠くに人影(大部分が労働者だった)が見えるときは、こわごわペダルを踏んだ。
 女は生来的に暴行などという言葉を知っているのだ。そのうち、父が大声で怒鳴って町行きは中止になった。幸いしたのは当時、それほど治安が悪くなかったことである。男の父は男が判ったのだ、と今なら理解できる…。
 それからお菜に困った親たちは、どこからか椰子の芯が食べられるという話を聞きつけて、毎日一本ずつ椰子の木を倒していった。資源保護うんぬんのいまなら、こうはいかなかっただろうが、とにかく食べるのが先決だった。パルミットが採れる椰子はほっそりしていて、伐採もそれほど難しくない。
 小娘だった私は、レジストロに関してはこんな、日常的な記憶しかなく、当時はまた植民地自体の成り立ちにも興味がなく、ぼんやり茶摘をしていたのが、ひとつだけ、鮮烈に脳裏に残っていることがある。
 茶摘をしたのは5部に移ってからだが、家族総出で2キロばかり離れた茶山に向かうとき、飼っていた子豚が一緒についてきたことだ。この子豚は犬みたいだね、とみんなで笑いあったが、あれは、『刷り込み』だったのだと、何十年もたってから日本語教師をやってみて、思い当たった。
 一日中、山で遊びながら、夕方家族と一緒に帰る。そんな生活が何カ月もつづいて、子豚は私たちを親だと思い、自分は人だと思っていたのではないか…。成豚になった豚は胃袋に入ってしまったが、豚の視点では共食いの残酷物語になる。いま、胸が痛む。
 明治村に移送されたという久保田邸の写真を見たとき、思わず、コレだコレだと叫んだのは、45日もかけて太平洋を渡って旅装を解いたパトロンの家がコレとそっくりだったからだ。
 なぜ、ブラジルに、日本式の家屋が建っているのだろうと、ずいぶん不思議だったのだが、コンデ街のバカブンドといわれた耕地の脱落者たちが、イグアッペに植民地が造成されて呼ばれたものだということが判った。不思議に思っていたことが、こんな風に解明されていく。
 『一粒の米 もし死なずば』を読んで、植民地の成り立ちや、その背景にある政治的な駆け引きが、わかって、今はすっきりしている。
 前史編から始まり、戦前編、大戦編、戦後編に構成されていて、歴史の流れがよくわかるのである。見知っている顔もちらほらある。
 移民たちはリベイラ川を見ながら、水の流れ行く先を思った。海を見てもそのはるか対岸に心を寄せてきた。水は営々と変わることなく、百年にわたって流れている。これから先の百年も変わることなく流れるだろう。
 ときどき、人が移るってなんだろうと考える。いずれはブラジルの海に埋没してしまうとしても、である。