私は断崖の上に立って目もくらむ眼下した。病棟の傍らを流れる小流が生い茂る萱の間から白く光って見えかくれしていた。断崖の高さは約五十メートルはあろう。六十度ほどの傾斜の中央に数本のゴムの大樹が突き出ており、大きく枝を広げて谷底を覆っている。あそこだ。あの中にいる。私は信じた。あと三日間という切迫した時間への焦りがそうさせるのではあるまいかという一抹の不安はあったが、眼下の幾抹かのゴムの根本は、人間一人の体を潜めるには絶好の場ではないか。
私は辺りを見廻した。強い蔓草があればよれを結び合わせて伝わり下ることができる。ふと、異様なものが断崖に沿って垂れているのを見つけた。
私の足元から一メートルほど下の名も知れぬ潅木の根本からそれはゴム樹につながっている。小指ほどの太さの緑の透明なロープだった。もう、この下に敵兵が潜んでいることは確実だ。私は崖を下りることにきめ、注意深く足を移動させながら、潅木の根本に両足を托して手を伸ばした。次の瞬間、一気に跳ぶようにしてロープをつかんだ。ロープは弾力性があり、僅かの衝撃を感じさせただけで、私の体は岩壁に沿って垂れ下った。意外に容易な離れ業だった。
それから、ゆっくりとロープをたぐりながら私の体は少しずつゴム樹に近づいた。あと五メートルほどでゴム樹の根元に足が届きそうになったとき、ロープは垂直になって私の体は岩崖に吸い込まれるように宙に浮いた。その瞬間、私の足は平地に着き、眼の前に洞窟があいているのに気づいた。長い年月野間に自然に出来上がったものなのだろう。その広さはどのくらいあるのか暗くて測る術もないが、その深い闇の中で確かに何かがうごめいた。
途端に私は叫んだ。
「恐がることはない。ぼくは君を助けに来たんだ。ぼくはブラジル人だ」
何秒かが過ぎた。
「ブラジル人ですって……?」
か細い女の声が返ってきた。
第三部
1
「何っ! 見つけたって!」
科長の声がうわずった。
「なぜ、引っ張って来んのだ」
瞬間、不安が横ぎった。私の報告でアンナに降りかかるかも知れない災過を防ぐべき手段を何も考えていなかったのだ。
「逃亡の惧れはありません」
私は自信をもって言い切った。
「間抜けっ! そんな保証がどこにあるか。島の周囲に敵潜水艦がうようよしているというのに」
そうか、そうだった! しかし、アンナは私に抱かれたのだ。私を裏切るようなことはない。一瞬浮んだ不安を打ち消すように、モット強く反駁した。
「女は、あの洞窟意外に安全な隠れ場がないことをよく知っているはずであります」
私は科長の眼を見返えした。
「それはどうでもよろしい。お前は女と話したのだな。ここで待て」
科長は急ぎ足で奥へ入ったと思うと直ぐに戻って来た。
「ついて来い」
私は科長のあとについて一昨日通訳という新しい任務をいい渡された副官室へ入った。副官は気のせいか焦粋の色が見えた。机の一輪ざしの水気を失った赤い野花が一層科長を沈鬱にしていた。