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パナマを越えて=本間剛夫=68

 一切、粟野中尉に委ねているのだから……。常識人である中尉は、二人の上司に捕虜の取り扱いについて淳々と道理を説いてくれているのだろう。戦争は終わった。軍隊はもう存在しない。階級性を盾に中尉を越権行為として罰することは出来ないはずだ。副官が狂気でない限りは。
 私が日本の軍隊に対して不信を抱いたのは、その教育と階級性だった。内地の陸軍病院で受けた教育という名で行われた、人間の悪意を最大限に表現したあの惨忍さ。二重国籍者である私の日本人である部分の愛国心や忠誠心が、教育期間中に私の意識から抹殺されてしまっていた。戦場に来てから私は日本人としてでも兵隊としてでもなく、(私)という個人としての生き方を忠実に守ることだけを考えてきた。エリカたちを守ることも人間の平常の行為に過ぎない極めて自然な行為なのだ。
 粟野中尉がアンナを伴って戻って来た。
「姉さんは、エリカといったな。エリカさんの所へ案内してくれ」
 中尉は下士官にいった。
 アンナは私に話しかけたいそぶりで視線を向けたが、下士官のあとについて庶務室を出て行った。中尉は二人の上官に平時の妥当性のある待遇を、エリカ姉妹に与えることを納得させたのだろう。「安心し給え」。中尉は私に低くいって帰って行った。その背に私は心の中で手を合わせた。
 その時、科長が現れ、私を見ると激しい口調で命令した。
「おまえ、軍人勅論を暗誦してみろ!」
 私は戸惑った。
「軍人勅論を唱えてみろというんだっ!」
 教育勅語はともかく、軍人勅論は苦手だった。教育機関中にも満足に唱えられたためしがなかったのだ。
「はいっ!」
 答えたものの、全く自信がなかった。
「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある。昔、神武天皇水から躬ら大伴物部の兵どもを卒い、中国のまつろわぬ者どもを……」
 唱し始めたが、果たして私は閊(つっか)えた。その次を懸命に思いだそうとしたが、焦れば焦るほど頭が混乱した。
「それ見ろ、出来ないじゃないか。もっともお前は日本人じゃないからな」
 科長は皮肉な笑みで唇を歪ませ、代わって唱え出した。
「………下級のものは上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ。若し軍人たるものにして、礼儀を紊し上を敬わず下を恵まずして一致の和諧を失いたらんには帝に軍隊の蚕毒たるのみかは、国家の為にもゆるし難き罪人なるべし………。どうだ。お前は軍人として恥かしくないか」
 いい捨てて科長は引き揚げた。鉄挙の制裁を覚悟していた私はホッとして腰を下した。
 科長の私に対するせめてもの懲罰だったのだ。科長もやはり常識人だったのだ。


         3

 医務室には仕事らしいものはなく、私に与えられたのは戦病死者の名簿とそれぞれのカルテの整理だった。
 エリカとアンナがどこに収容されているのか分らないまま一カ月が過ぎた。粟野中尉は毎日定刻に副官を訊ねて来たが、中尉はなぜか私との接触を故意に避けているらしかった。