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パナマを越えて=本間剛夫=72

 あの時、気づいてさえいたら洞窟でのアンナの挑みを強く拒絶していたのだ。サンパウロの銀行支店長秘書と米軍航空将校……戦場……。それがどう一人であると誰もが結びつけることが出来よう。エリカを許してくれ! 私は心の中で許しを求めた。
「お前が入れ。司令部へ行くのだと説明するんだ」
 下士官が格子の自在鍵を外した。私は格子扉を潜って二人の前に立った。
「シュサック! エリカ、シュサックよ」
 アンナが叫んだ。
 エリカが眼帯をした顔を私に向けた。唇が震えているのがはっきり分った。〈シュサック〉これはサンパウロで私を呼ぶときのエリカのポルトガル語のアクセントだった。〈アンナは洞窟の中でのことを、エリカに話してしまっている!〉羞恥と強い後悔でエリカを正視できないでいた。
 アンナはすぐに顔をそむけたが、エリカの顔は私に向けられていた。私は声が出なかった。
「おい、兵長、早くしろ」
 背後で下士官がいった。
「……エリカ……こんな所で会うなんて……。でも会えてよかったよ。嬉しいよ……。これから司令部へ案内する。さあ、二人とも立ってくれ」
 二人は立ち上がった。
「十一月五日、アバィアン島の降服文書調印が決まったよ。君たちは無事母国に帰れる。それに……明日から君たちは日本軍将校の英語の先生だ」
 生命の危険さえ感じていたに違いない二人の顔に仄かに紅が刺したように見えた。日本を憧れ育った父の国日本の、彼女らと同じ血をもった将校の野望を拒み続けた怒りと疲労が胸の底に重く淀んでいるはずだ。
「さあ、歩けるかい?」
 私の差し出した手をエリカは強く握った。四年前、私たちはサンパウロの高級住宅街のブエノス・アイレス公園の街路樹の蔭で、このように手をとり合ったものだ。エリカは今、それを思い出しているだろう……。
 私はエリカの体を支えて扉を潜り抜けた。あとからアンナが続いた。道に出たときアンナが代わってエリカの腕を支えた。下士官の前で敵に対する過度の親密さを示すのは危険だった。濠を進みながらエリカが一言も口を聞かないのは好都合だったが、私の心を重くもした。〈エリカは許さないだろう。アンナとの交わりは愛を伴輪ない行為だったのだと弁解したところで……〉
 二人がこの島を去る日、その瞬間、私とエリカは永遠の離別になるのだろうか。深い悲哀が胸を締めつけた。
「これから、何があるの……」
 アンナがいった。
「心配することないよ。降服文書調印の日まで将校たちに英会話を教えることになっているから、多分そのことで話があるのだろう」
「プリーズ、プリーズ」
 歩みの遅い女たちに、もっと急げと下士官が促した。

         2

 庶務室に着くと下士官はふて腐れたようにどっかと椅子に腰をおろし、奥の方へ眼を向けて顎をしゃくった。
「もう、俺なんかの出る幕じゃねえ……」
 私に二人を副官室へ連れて行けというのだ。
 私が姉妹と彼の理解できない言葉で会話を交わしているのが癇に触ったらしかった。私は少し躇いながら、下士官を無視するよりほかはないと思い「では」と断って奥へ進んだ。