二代目である岡山住職に60周年を迎える寺の歴史を聞くと、初代の岡山薫界(くんかい)は叔母に当るという。戦後すぐに訪日したプレジデンテ・プルデンテのお寺の門徒総代が、たまたま薫界師の法話を聞き、「これなら勝ち負けで荒れたコロニアを融和する説教をしてくれる」とほれ込み、当地に呼んだところから始まったという。
「薫界は熊本県八代市の造り酒屋の女ばかり4人姉妹として生まれました。3、4歳の時、30代だった父を脳血栓で亡くし、それもあって5歳の時には坊さんになると決意していました。若い時から無常を感じていたそうです。おばあさんは夫が亡くなった後、酒屋を継いで盛り上げた。4人の娘に一人一人女中がついていたような家で、納税額は村一番だったと言います。とても厳しく、かつ先見の明のある人で、4人全員女学校に行かせた。30歳の時、薫界は病気で子宮を摘出し、41歳の時に独身で渡伯した」
岡山智浄住職は、「(薫界のような)女のお坊さんは当時コロニアでは珍しかった。最初はアラサツーバでお世話になり、熊本の人が多いというので、ここに引っ張られた。独身で来ましたから、当時の一世はみな気が荒く、行儀知らずで、失礼なことを相当されたという話です。頭のいい人で、歌が上手だった。最初は青年会館を使わせてもらっていたが、じっと耐えて信徒を増やし、700家族の以上が寄付してこのお寺を建立した。彼女の強い決意があったから、このお寺もできたのです」と歴史を説明した。
「私は彼女の姉の子で、1962年、27歳の時に彼女の呼び寄せで来ました。私は結婚して子供が4人いましたから、こんなに忙しいお寺からは出て、もう少しゆっくりできるところへと考えていた矢先、薫界が交通事故で亡くなったのです。1973年8月24日でした」。
信者にとって、まさに青天の霹靂だった。
「次の日は、待ちに待った鐘楼堂のイナグラソンという時でした。お話が上手で引っ張りだこでしたから、全伯を講話して歩いた。そうやって、ようやく立てた立派な鐘楼堂のイナグラソンの日のために、偶然、関係者を皆呼んでいました。何も知らずにあつまった信者にとって、それが彼女の葬式になったのです」
劇的な死がもたらしたものは、残された者の人生への大きな変化だった。「ここで頑張らなければと、私は心を入れ替えました」。(つづく、深沢正雪記者)