南マット・グロッソ州のノーヴァ・アンドラジーナから来た代田正二さん(しろたしょうじ、90、長野)は「リンスは若い人がたくさんいて良かった」としみじみ語った。アチバイアの寺田三千男さん(72、長野)は、「これだけの日系人のつながりがあるのはすごい。それぞれが上手にブラジル人と協力して影響力を強めて行けば、いずれ大統領でも出せるかも」と語った。
春日洋呉さん(かすが・ようご、79)はオズワルド・クルスで会った斎藤修三さんとは、力行会の同期で同船者なのだという。「50周年の同船者会で渡伯以来、初めて会い、今回は2回目だった。まさか会うとは思っていなかったので驚いた」と喜んだ。
◎
その晩から一行はリンスのブルーツリーホテルに宿泊して温泉プールを楽しんた。翌3月30日は終日自由時間だったのを利用して、リンスの久保若松さん(70、二世)にお願いして、朝なお暗い雷が時折り光るような土砂降りの中、30キロほど東にある平野植民地に連れて行ってもらった。
久保さんはユニオン植民地生まれで「今は日本人いないね。当時は陸上や野球が盛んでね、大会が楽しみだった」と懐かしそうに思い出した。「リンスには昔3千家族が住んでいた。ほとんどは田舎で農業、今は400家族ぐらい」。
平野植民地は、カフェランジャのセントロから15キロ奥、タンガラー植民地はさらに10キロ奥にあるという。
ようやく「Colonia Hirano」の看板が見えてきた。会館のすぐ隣には、エタノール工場(ウジナ)が立っている。かつてコーヒー畑が一面に広がってたここも、サトウキビ畑一色に代わった。
今年百周年を迎える、ノロエステ最初の植民地「平野」の会館に到着すると、10人ほどが待っていてくれた。
『移民の地平線』(岸本昂一著、1960年、曠野社、167頁)には《死屍累々として幽鬼も咽ぶ 邦人が最初に樹てた集団地 平野植民地 三カ月に八十名が犠牲》とのおどろおどろしい見出しで紹介されている。
それまでコロノばかりだった日本移民は、大農業主から搾取されるばかりで、錦衣帰郷という目標を到達することは到底不可能な状況に置かれていた。
それを見かねたグアタパラ耕地の副支配人までしていた平野運平は、その重職を捨て、82家族の日本人賛同者を率いて、1915年8月にノロエステで初めて土地を所有する自作農の集団地を開いたのが百年前だ。
15年7月に在聖総領事館が開設され、松村貞雄総領事が赴任し、彼が平野を裏から助ける形でこの植民地は始まった。翌16年にリンス入植、18年に〃移民の父〃上塚周平が植民地を拓き、それを模範に続々と移住地が開かれる―という移民史の端緒がここにある。その上塚植民地に住み着き、今もそこを守っている末裔が、リンス本願寺にいた安永家一門だ。(つづく、深沢正雪記者)