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第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ=第15回=平野植民地=初期開拓者の子孫が突然訪問=亡母の乳房吸う赤子が私の親

矢野正勝さん

矢野正勝さん

 門徒総代の矢野さんは「数年前に初期入植者のソブリーニャ(姪)という人が突然、訪ねてきた。平野植民地の最初の悲劇の時に、マラリアで死んでウジがわいている母親の乳房を必死ですっている赤子の話を書いた本のくだりを読んだと言っていた。その赤子が自分の親だと泣きながらいうんだ。それで、その場所を見たいと訪ねてきた」という。
 移民史の一場面は今も生きている――。百周年を記念して、お寺の改修工事に加え、そのすぐ横に立つ会館を2倍以上の大きさに拡張する工事をしている。一室は、日本から持ってきた古いもの、昔の写真や道具を展示する移住資料室にするという。
 森部さんの父が日本語学校の教師をしていたが、03年に亡くなり、それから閉校してしまった。その建物内に史料展示室もあったが、小火で焼けてしまった。「4月には毎年、花祭りをするんだが、昔の様に日本語学校の子供の歌とか踊りはもうない…」。

森部久会長

森部久会長

 矢野さんは「平野では最初に米、養鶏、養蚕、カフェ、雑作といろいろ試してきた。今ではこの辺はカンナばかり」という。でも「矢野家で1918年5月にカフェを始めてから、祖父の代からずっとカフェ一本槍だった」という。
 「多い時で15万本植えていた。でも1987年に雹で枝が傷つき、そこから雑菌が入ってやられて、10万本がだめになった。それから5万本で続けてきたが、実は今年抜いた。1千本だけ残してあるけど。もう労働者がいないし、労働法があまりに厳しくなってね…。周りがカンナ畑ばかりになって、5、6年前から飛行機で薬をまくようになった。その薬の良くない影響がカフェの樹に出ている。僕もカンナに切り替える」。時代の波は確実に影響を及ぼしている。
 森部会長は今年の行事は新年会、2月6日の平野祭、5月の母の日、6月18日の移民の日、8月2日の百周年などを予定している。森部さんは「盆踊りや焼きそば大会にはブラジル人もたくさん来ますよ」という。
 「今は12家族、21人が住んでいる。8月2日に百周年式典、法要、お墓参りをするので、所縁のある方、関心のある方はぜひ来てください」と呼びかけた。
 取材が終わって外に出たら、すっかり晴れあがり、清々しい青空が広がっていた――。
     ◎

大宣寺で焼香する一行

大宣寺で焼香する一行

 ホテルに戻るとリンス市内ツアーがあった。セントロのサントアントニオ聖堂の横のリンス日本人入植50周年記念碑(1916年入植)や、移民百周年を記念して鳥居とスズラン灯を作った記念通りを見てから、本門佛立宗の本山・大宣寺を訪ねた。
 斉藤法明住職の話を聞き、焼香した。元々は笠戸丸移民でブラジル仏教改組とよばれる茨木日水師が1936年にグァイサーラに開き、51年にリンスへ移転したという。71年に記念塔が立てられ、現在の立派な本堂は87年に建立され、移民百周年で旧本堂が史料館になったとの説明を聞いた。
 一行は翌3月31日昼過ぎにサンパウロ市への帰路につき、午後8時にリベルダーデ広場で今回も無事に散会した。(終わり、深沢正雪記者)