ブラジル各地から集まった桜組挺身隊の同志は、サントアンドレー市の町はずれで養鶏場を営んでいた人のところに落ち着いた。
共同生活を三カ月くらいやった後、軍によって強制解散させられるのだが、その後の同志の動向はしばらくの間伝わっていたが、今は、ほとんど私には分からない。
私とあまり年の差のないある女性で、料亭に働きながら苦学して、後にはサンパウロの大病院の院長先生にまでなった人がいたが、その女性が昔の同志の子供たちの中では最高の地位を築いたのではないかと思う。
私にはその体験は、ただの想い出となっているが、中には、「人生、めちゃめちゃにされた」と、親のとった行動をずーっと恨み続けた人もいたし、「あの頃の事は思い出したくもない」と、頑なな人もいた。
サントアンドレーに集結したのは三百何十人だったと思う。
バストスからの家族が着いた後、パラナやその他の奥地からぞくぞくと集まってきた。
真面目にすべてを投げうって来た家族もいれば、又、帰ってくるかも知れないと、ちゃっかり兄弟などに商売を預けてきていた家族もいた。
養鶏所と、本宅を除いて周囲は傾斜の多い土地だった。その夜から、養鶏小屋が皆の宿泊所になった。
それぞれが敷布などを敷いて場所を確保したのだが、乾いた鶏の糞がゴロゴロしていて、「こんな所で寝るの?」と、言う感じだった。
夕方、帰ってきた鶏が、「自分たちの場所を取った!」と、ギャアギャアわめき散らして抗議していたのが私にはおもしろかった。
私は子供だったから、そこから始まる生活への不安も不満もなかった。ただ物珍しく大勢の人に囲まれて毎日うきうきしていた。
硬い鶏の糞の上に寝るのも気にならなかった。今なら「汚い!」とえらい騒ぎになったはずだが………。
共同生活と言うのは、そこに小さな社会の縮図が起きる。
人より広い場所を確保しょう、人より早く列に入ろう、人より偉そうにふるまって自分に従わせよう、などなど。その反対にいつも控えめのグループ。さまざまのグループができて、ひそひそがやがやの雰囲気があったのは、子供ながら感じとっていた。
年頃の青年男女もかなりいた。若い女性には苦痛な事もいっぱいあったと思う。たとえばトイレ。トイレは穴を掘って四つ五つ作られたが、戸はなく、布がぶら下がっているだけだった。それもペラペラのもので、風が吹くと中が窺える。子供の私でさえ少し気になったのだから、今思えば、若い娘にはどれだけのストレスになったか。そのストレスと言う言葉さえあの頃はなく、じっーと、なんでも耐えるおとなしい娘が多かった。
そのトイレの前にいつも行列ができた。なにしろ三百人が使う。
風呂、これまた行列。風呂と言っても大きなドラム缶で、しまい頃になると、垢を付けに入るようなものだった。(つづく)
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