標記は、コチア青年連絡協議会主催の旅行であった。ことに今年はコチア青年移住60周年記念の年なので、行事の一つでもある。私も妻と共に参加した。世話役担当は第一次第一回移住の黒木けい氏で、彼の熱心で丁寧な呼びかけに応じ、募集を始めて一週間後にはほぼ満席となった。
バスは大型44人乗り。旅程は2泊4日で、先ずノーヴァ・フリブルゴ在住の松岡利治氏(農場)と村田勇氏の経営するニブラ農機商工を訪ね見学させてもらった。
松岡農場は現在、2千本の渋柿、アルファセの水耕栽培、さまざまな野菜などを生産している。生産は長男、販売は次男が担当。リオの市場には販売ボックスを持ち、万全を期した経営である。
松岡氏は50年余前にアチバイア方面でのカーネーションの栽培を見聞し、冬期にはアチバイアよりノーヴァ・フリブルゴ方面での栽培がもっと良いのではないかと考え、それを実行し見事的中した成功者であり、この地方へ導入させた先駆者である。時の流れにより栽培作物は変わったが、それらの経過は省略するとする。
当の松岡氏は「一応家族も育ち事業も軌道に乗っており、おかげで子息たちが後継ぎとなってくれた。私はすでに30年程前よりリオ州の日系社会の文化福祉活動の支援をしていましたが、現在はそれらも引退し、必要な折には出向いています」と話してあった。氏の功績は2012年、日本政府より旭日単光章を受賞されている。
リオ州は人口1千万人余、リオ市は650万人、ブラジルの第二の大都市である。歴史、景観、観光などから見てもブラジル一の素晴らしい都市とカリオッカは大言してはばからない。
リオの2大シンボルの一つ、コルコバードの大岩の上に立つキリスト像。ポン・デ・アスーカルの頂上から眺めるガワナバラ湾の周辺の絶景。コパカバーナ・ビーチ。また、それらの夜景も含め、世界3大美湾と称えられている。ほか、マラカナン・スタジアム、大植物園、リオ・ニテイロの大橋など名高い所が多い。
さらに少し山岳地帯に行けば、ペトロポリス、テレゾーポリス、ノヴァ・フリブルゴなどの中都市がある。リオより約100キロ、海抜800~900米の避暑地は、昔は皇族や上流階級の別荘地であり、歴史的建造物等が遺る貴重な地帯でもある。現在はそれらの避暑地の中心部は大商店街で賑わい、高給なホテルが林立している。
観光地となっているノヴァ・フリブルゴは、外国人が移民として初めて入った地である。19世紀初頭、ナポレオンに追われたフランス人がこの地に逃げ隠れていた。しかしこのフランス人は移民ではなく、1818年に移民として公式に入ったのはスイス人であった。
この地は故郷のアルプス山脈にも同名の地があり気候環境もとても良く似ており、スイス移民の261家族は何よりも風光明媚な地だと喜び住み着いた。後年第1回移民の生活が安定したのか、1862年に後続移民280家族が到着した。その移住者たちは牛を飼って乳製品を造ったり衣服を作るなどの作業に精励し、1900年頃には1つの街となった。
ことに衣服では下着生産が中心となり、現在は下着のモデル制作など、時代の先端を行く街として有名になっている。ことに若い女性向の下着が多いが、男性子供の下着、さらには運動用、寝着なども研究開発しているとてもモダンな街である。私ども老齢の男性にとっては、楽しい話題となり目の保養となったひと時であった。街にはスイス移民の博物館があったが、残念ながら時間の都合で見学出来なかった。
2日目の昼食は、コパカバーナの景勝地に一昨年新設された、豪奢でユニークなショッピングセンターの中の食堂『NAGA』で初めての日本食であった。なんとこの食堂は、コチア青年仲間の永山八郎氏のご子息が経営する食堂である。来年のオリンピックには、客がさばけない程の大入り満員で嬉しい悲鳴をあげるに違いない。あっぱれな戦後移民の躍進だ。
以上でやっと旅の概略を記したが、長い旅で、同行の仲間と親しく楽しく語り合った雰囲気などを記すスペースがなく残念である。
末筆ながら、この旅行で特にお世話になった松岡氏、案内役の南ローザさん、ギアのSAKAIさんに御礼申し上げます。