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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(9)

 ともかく、北パラナのテーラ・ロッシァでのカフェー栽培は、無肥料で25年から30年続けることができた。カフェー樹一本当たりの収穫量も他州とは比較にならぬほど多かった。これは別の作物も同じだった。
 なお、中西周甫著『北パラナ国際植民地開拓十五年史』によると、地理的には、北パラナとはカンバラーからイヴァイ河に至る長さ500キロ、幅150キロの地方を指し、内、長さ450キロ、幅50キロがテーラ・ロッシァであった、という。

鉄道建設の狙い

 アントニオ・バルボーザはリベイロン・プレット地方に所有していた資産を売り、家族や使用人を伴って北パラナに転住した。入植した所が現在のカンバラー=当時のジャカレジーニョの一部=である。
 先に触れたが、北パラナには、十九世紀の中頃から、ボツボツ入植が始まっていた。バルボーザが来た頃は、アチコチに集落ができていた。赤土のドロ壁や細く曲がった丸木で作った粗末な家が多かった。日照りが続くと、道の赤土が埃となって舞い上がり視界を閉ざし、雨が降ると泥濘と化し歩行を阻んだ。集落の周辺にはカフェザールや穀物畑、牧場が造られていた。
 単なる集落ではなく、やや体裁を整えた所もあった。ジャカレジーニョやリベイロン・クラーロの中心地である。行政機構上は、この二カ所は、すでにムニシピオになっていた。(ムニシピオは、昔は郡と訳された。現在では、日本の市、町、村に当たる。右の二つは小さな村ていどの規模であったろう)
 だから、バルボーザは北パラナに於いては、パイオニアというわけではなかった。しかし、その開発史には、彼の名がしばしば登場する。実際、北パラナは、バルボーザによって活気づいた。それは彼が鉄道建設に乗り出したからである。
 ただ、その着手は少し先の話で、入植直後は、まず土地を買った。ジャカレジーニョに5000アルケーレスを入手した。以後も、その西南西方向の原始林に覆われた土地を3万、9万アルケーレスという単位で買い進んだ。ちなみに1アルケーレは2・42ヘクタールである。
 土地の売り手はパラナ州政府だった。格安の値で売り出していた。無論、この地方の開発を奨励するためである。
 しかしバルボーザは、どうして、そんなに大面積の土地を買ったのだろうか。それは彼が(買った土地の中に、鉄道を通せば、地価がハネ上がる)と読んでいたからである。つまり彼はファゼンダ経営のほか土地売りも目論んでいた。

ファゼンダ・ブーグレ

 土地の確保に併行してバルボーザは、ジャカレジーニョに入手した土地の一部550アルケーレスに、ファゼンダを造った。この辺りには、アランバリという地名はあったが、人家らしいものは4、5キロ西(現在のカンバラーの市街地)に数軒あるだけだった。そこ以外は樹海であった。
 バルボーザが造ったこのファゼンダは「ブーグレ」と名付けられた。ファゼンダの中を、アグア・ド・ブーグレという川が流れていたからである。ブーグレとは、インヂオの一種族の族名であった。ブーグレは後世「北パラナの名門ファゼンダ」と呼ばれるようになる。幾つもの伝説が生まれ、数奇な運命を辿り、日系社会とも深く関わり続ける。
 バルボーザは、ブーグレで100万本を目標にカフェーを植え始めた。当時の一ファゼンダとしては最大級の規模であった。もっとも550アルケーレスにこの樹数だと窮屈な感じがしないでもない。実際に100万本植えたかどうかも不明である。
 バルボーザは、ブーグレの労務者として、多くの外国移民を雇い入れた。その中に日本人もいた。リベイロン・プレット時代、彼らの働きぶりを見て、使い様によっては、他国の移民より役に立つ──と踏んだのである。1914年から入れ、以後数を増やした。
 もっとも北パラナへの日本人の入植は、ブーグレが最初ではない。前記のリベイロン・クラーロにあったモンテ・クラーロというファゼンダが、1912年以降、導入している。ブーグレより2年早かったことになる。これについては改めて触れる。(つづく)