ブーグレのカフェーの育ちぶり、繁茂ぶりは素晴らしかった。ここの土は特に肥沃で、40年間、無肥料で持った──という伝説すらある。バルボーザは、このファゼンダに惜しみなく大金を注ぎ込んだ。セーデ(本部)には大邸宅、巨大な乾燥場や倉庫を建てた。原始林10アルケーレスを柵で囲い、種々の動物を放った。庭には栽培可能なあらゆる果樹を植えた。テニス・コートやプールもつくった。セーデの入り口には番人が居て、日本移民の労務者などは、畏れて覗くことも憚った。
この豪華さは、当時のファゼンデイロ共通の見栄であったが、北パラナへ投資家を招くための舞台装置でもあった。後に英国の事業家をここで接待している。これは鉄道建設への投資を誘うためであった。ほかにも、資金力のありそうな視察者が、この辺りへやって来ると、招待して大歓待した。無論、自分の土地を売るためだった。
ブーグレには、1932年、英国の皇太子が訪れた。これで箔がついた。小説の舞台にもなった。これは宣伝に役立った。
このファゼンダは、一世紀後の現在でも──所有者は代わっているが──存在している。筆者はセーデに入る機会はなかったが、写真で見る限り、それほど豪華とは思えない。ただ、実際に内部を見ると往時が偲ばれる、という人もいる。
労務者は半農奴扱い
一方で、バルボーザの労務者の使い方は、他の多くのファゼンデイロと同様、中世の荘園主の悪癖を残していた。半ば農奴扱いであった。例えば一日本移民は「住まいは豚小屋同然だった」と語り残している。中に入った時、異様な臭気が鼻をつきショックを受けたという。先住者の動物的体臭と糞尿が滲みこんだ臭いだった。
労働は苛酷で、フィスカール=現場監督=の労務者への接し方は荒々しく、奴隷時代の気分を引いていた。ためにイタリア移民の労務者が、暴動を起こし、在ブラジルのイタリア大使館(もしくは領事館)に訴え、館員が実情調査にきたことがあった──という。
やはり資金繰りは難航
さて、1920年代に入ると、バルボーザは鉄道建設のため動き出した。ブーグレのカフェーの生産量は年々増えており、さしあたり、これを市場に運ぶために鉄道が必要だった。市場とはサンパウロ市もしくは輸出港サントスである。そこへ通じる鉄道の、ブーグレから一番近い駅はソロカバナ線オウリーニョスで、東へ25、6キロの距離だった。ただ途中、パラナパネマの大河が陸路を切断していた。
バルボーザは、この地方の有力者と組んで「サンパウロ―パラナ鉄道会社」を設立、自身が社長になった。第一段階として、オウリーニョスからブーグレの傍を通って、前記の人家らしいものが数軒あった処までの30キロに、線路を敷くことにした。彼が最初に買った5、000アルケーレスの土地は、その沿線に在った。
工事が始まったのは1923年で、この時、現場の指揮を任せるため雇ったのが、まだ若い一人の技師である。ガストン・メスキッタといった。この人物も、やがて北パラナ開発史上、高名な存在となる。彼は数年前、サンパウロ市にある工科大学を出て、ノロエステ線の建設工事に参加した。それだけの経歴であったが、サンパウロ─パラナ線の工事の監督に起用された。新妻と人里離れた山奥に板小屋を建てて、仕事に着手した。
彼が、そうしたのは、直線距離でも500キロ以上あるパラグアイとの国境まで、鉄道を通すことが、少年時代からの夢であったためである。暇があると、地図を片手に、その方法を工夫しながら成長した。サンパウロ―パラナ線は、その夢の第一歩であった。
メスキッタが動き始めると、鉄道敷設の予定地の沿線は、活気づいた。土地が買われ、気の早い者は転住してきた。しかし会社の資金繰りは、やはり難航した。有力な投資家を探したが、直ぐには見つからなかった。(つづく)