千恵は家に戻ってはこず、病院より墓地に運ばれ、遺体安置場で弔問客に会い、永の訣別をすることになった。
太一はどういうものか、父母をはじめ弟妹たちとも縁はうすい。長男なのに家を出たゆえだろう。おなじサンパウロ市内にいても便りもなく、時に妨ねてきても四、五年の間はおいている。まして他州にいる者とは嘘のようだが二十年も会っていない。そんな縁のうすい男だから、父母の死に目にもかかわらずしまいになった.ーあんたは人に懐かれんからー千恵はよく言ったものだが、妻の臨終も看てやれず、過言も聞いてやれなかったのは、太一の一生の悔いとなってのこった。
太一はおれの死にざまはどんなものかと、そう遠くもない自分の死、主観のすべての消滅について考えると、やはり寂しい思いは払いようもない。彼が血縁でもっとも身ちかく接したのは、祖父の死の床であった。十歳ぐらいの頃だった。祖父が倒れて意識不明のまま床についていたのは覚えている。町から医者がよばれ、家族のみまもるなかで、先生は懐中時計をだし病人の脈拍をはかり、聴診器を胸のうえにあてたのち、瞳孔をしらべー注射をしておきましょうー父の同意をうながすように言って、黒い皮のカバンから注射器をとりだし、薬液のはいったガラスの筒の先をポンとおり、器具にすわして祖父のうでに刺すのを、太一はめずらしいもののように見ていた。医者はなにか父につげ、人力車で帰っていった。
「先生にたかい注射までしてもらったのだから、これで効かなかったら、寿命だわえ」
祖母はそう言ったものだった。その頃、庶民には病院などかかわりはなく、助からない病人も身内の者にかこまれて死んでいったようである。祖母は七十ちかくになって移民となって海をわたってき、一家がコロノの不遇の時代に死んだ。太一の血縁のきずなは薄い、父からは勘当されている身だから、そのあたりは弟妹の思惑もあってか、通知は両親とも死後にしか届かなかった。千恵の場合はすこし違うようだが、結果としてほぼおなじ
ことになった。
親戚の者が留守をしてくれることになり、太一はさいごの車でM市にむかった。そこは彼ら夫婦にとって、今日の礎をつくった土地であった。奥地で太一は病をえて、義父を頼ってきたのは三十年の昔になる。
それは義父にとってまったく裏腹の事態になったわけだが、両親にも含むところのある千恵は(ある事情をしっていて、太一と結びつけた)見返してやるつもりで、それこそ昼に夜に働き、やっと人並みの暮らしができるようになれた土地だった。
その埜域には千恵の父母は埋まっているし、知人のだれかれも葬られていて、M市は縁あって千恵の墳墓の地になったのである。
太一が着くと、R村にいた頃の旧知の人たちもきてくれていて、お悔やみを言ってくれたのは、家計にいくらかの余裕のできた頃、干恵は推されて村の婦人会長を何年かつとめた故の余徳だろうか。
そのうちに霊柩車が着いた。千恵の遺体は控え室に運ばれた。なにがしかの心づけを払えば、死に化粧もしてくれるという。やがてそこから千恵は寝棺におさまって、長い机のような台におかれた。燭台の蝋燭に灯がともされ、坊さんが席につき読経がはじまった。
多角形の屋根をもつかなり広い建物に、親戚、知人の会葬者がみちて、寂しくはない告別式になった。予定の時がきて、坊さんのー焼香をーという知らせに、喪主としての太一がまず線香をそなえた。千恵は棺におさまり上向きにねて、両手は胸のうえに組んでいる。
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