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森脇先生を偲ぶ=鈴木正威

 先生と初めて会ったのは、1965年の頃である。当時、日本語普及会に在籍していた私は、日本語教育実態調査の手始めてとして、市内の日本語学校を歴訪していた。そのひとつに先生が教鞭をとるカショエリンニャ校があり、そこを訪問して思わず目を剥いたのである。
 丁度作品発表会だったのか、校内には生徒の手作りの図工の作品が並べてあったが、それが実に多彩な上に工夫を凝らしていて、他の学校には見られないユニークなものだった。学校の庭園には花壇があってきれいな花々が咲いていたが、それはみな先生の指導によって生徒たちが育てあげたものというのである。
改めて先生の型破りというか異色の指導ぶりに惹かれて訊いてみると、本来、お寺の出である先生は浄土宗の開教師として赴任したが、当地の総監と意見が合わずに飛び出して、教師になったということだった。
 それから先生との長い付きあいが始まったが、先生は単に教室の授業だけではなく、課外の情操や趣味の練磨にも本領を発揮した。凧を作らせて揚げること、獅子舞や笛吹きの指導から、年末には生徒とともに餅をつき、新年には雑煮を振舞ったり、恒例となったピッコデジャラグァの山登りをしたりと、枚挙にいとまがない。
 そうした先生の生きざまは、単なる型にはまった日本語教師ではなく、いわば全人教育者としてその真価を発揮したといってもいい。
 そのうち、『だるま塾』という自分の学校を経営するようになった先生は、期するところがあって、日本から、最初は東京外大の在学生を日本語教師として招聘することにした。日文連に頼んで呼び寄せ人になってもらい、みずからは保証人となって各地の日本語学校に送り込んだのである。
 その頃から日本語教師の不足やマンネリ化が懸念されていたコロニアでは、日本からこうした新しい時代の理念や雰囲気を身近に漂わせる若者たちは、日本語教育界に新風を吹き込み、世代交代の先駆けという大切な役割を果したはずである。
 先生はこのため私財を投げ打って、文字通りこの活動に精魂を傾けた。この制度はやがて他の大学生にも適用され、全員で117名までに達するようになり、その研修生のなかには先生の人徳を慕って卒業後もブラジルに職を求めてきた人たちもかなりいる。
 晩年の先生は人柄も枯れてきて、親しい友人たちの葬式には自ら読経をして霊を慰めたりもした。また、多忙な授業の合間に書いた論文『日本語教育の理念の歴史』は人文研の紀要に連載され、ポ語にも翻訳されて研究者必須の資料ともなっている。
 今ここに先生が逝去するにあたり、しみじみとその遺徳が偲ばれる。それは先生こそ市井にあって、慈悲という仏のこころを静かに実践した人ではないか、ということである。改めて先生の冥福をこころから祈りたい。

2011年公開の映画「汚れた心」の撮影に来伯中の、女優・常盤貴子、余貴美子らと共に笑顔を見せる森脇礼之氏(2010年撮影)

2011年公開の映画「汚れた心」の撮影に来伯中の、女優・常盤貴子、余貴美子らと共に笑顔を見せる森脇礼之氏(2010年撮影)