寝台の頭をおく側に枕が二つならんでいる。わずか三日まえまで千恵が頭をおいたところなのに、今夜はもうその者はいない、いままでにも太一はおおくの人の死に会ってきた。ーすべての人間は死ぬ、知人Aは人間であった。それでAは死んだ。で片付けてきたが、千恵の死はその帰納法では納得できないなにかがあった。
太一は重い頭で、千恵との過去のさまざまなことを想いめぐらしていると、
(ーあんた。もう休んだらどう、夜もかなり更けているのにー)
妻の声を聞いたようにおぼえた彼は我にかえって、おもむろに腰をあげた。いつもはきちんと畳まれて、枕もとに重ねてある寝間着はない、太一が朝おきて着かえたのを、まるめて洋服タンスになげこなんだのがそのままである。こんな日常の些細なことにも、胸の中にいすわったひとり身の落莫をおぼえた。
太一は麻の背広服をぬいでハンガーにかけてみて、なにか違和感をおぼえた、千恵はいちど着たものは襟の汚れを気にして、そのままではけっしてタンスにしまわず、仕事をとりにくる洗濯屋にわたすのを思い出したからである。上着をきてゆくほどにあらたまった場所に、彼はしょっちゅう招かれるわけではなかったが、招待をうければ欠席のできない義理あいの場もいくらかはあったのである。ところで、千恵のいう洗濯屋からもどってきた清潔な服をきて、夫がゆくはずのつぎの場所とは何処だったのだろう。人は自分の明日を知ることはできないとはいえ、それは自分の死出の旅を送る夫への用意ではなかったのか、そこに太一が思いをはせた時、命あるもののはかなさ、妻の哀れさに、はじめて悲しみがどっと胸にあがってきて、太一は慟哭に身をまかして寝台にうつぶした。
丈二は翌日、母を診た医者に会いにいったが、その医者は多忙でついに話す時間はもらえなかったという、それで千恵はなにの疾患で死んだか分からずじまいになった。死亡診断書には呼吸困難によってとあるので、心臓がよわってきたのか、よく痰を喉につまらせる体質だつので、それが原因になったのだろうか、手術はしたというが、ただ開いただけではなかったのか。家が焼けて火事の原因が究明されても、灰になったものは元にもどらない、千恵はそれだけの寿命だったと、諦めるより仕方はなかった。
葬式は仏式にしたのも、嫁の兄の世話によった。彼は二世だったが太一などよりも古い日本人の俗習にくわしいので、すべてを任せたのであった。
太一の日常には宗教的な行為はない、厳格な言行一致では、彼のような無信仰の者は無宗教で葬儀をいとなむのが正しいだろう。ところが日本の社会主義者の墓なども、たいていは寺院の境内にあるときく、それにはまた事情もあることだろう。
千恵は宗教には反対ではなかったが無関心のところがあった。彼女はもともと死生観とか、神仏に頼るという気持ちはうすかったようだ。またそのような話題はすきでなかった。千恵は自分の運を信じている傾向があった。事実みずからたのむにたることをなしとげていたので、隠居の身になってからは、頼りにしたのはともに苦労してきた息子であった。
太一は自説をおして、妻の葬式まで無宗教でやる気持ちはなかった。後日聞くかもしれない変な噂は嫌なので、すべてを世話人に頼んだのであった。七日忌、四十九日忌もすませた。坊さんはー自分は移民の出だが、何ヶ月かは高野山に修業にいってきたーと話した。