宿世の縁 二(続)
松山太一は、ひと月ほど前に、亡妻の一回忌をどのように行なうかについて考えていたのに、息子からその件について聞かれたときは、すっかり度忘れをしていた。
彼には折々このような現象がおきるようになっていた。
いまさらのように慌てた太一は、前にも世話になった嫁の兄に、坊さんの都合をきいてくれるよう頼んだ。千恵の命日は坊さんの旅行の日程とかさなるので、帰ってからということになった。日がきまると太一は疎遠にしている弟妹たちに、一おうは法要をしらすことにした。
父より義絶されている彼は、ー許すーとの父のことばのなかった以上、総領ではあるが、出来物そろいのなかの半端者として、出てゆけよがしの扱いに、分家を願いでたところそれもゆるされず、ついに勘当までされている身ではあるが、千恵の死にさいしては知らぬ顔もできないと思って、妹(やりとり婚で故人の弟の嫁になっている)との義理の縁によって、ほそぼそながらの交際があったので、一おうほかの弟妹たちにも知らせてくれと頼んだのが、後をひくようになったのである。
法要は平日で午後七時という事情もあってか、太一のほうは故人の弟のほかは誰の出席もなかった。なにも含まれるところもない千恵でさえ、この有様ではおれの場合はと、つい太一は苦笑がわいてくるのであった。
けれども法要は寂しくはなかった。年寄りもまじって嫁がわの人はみんなきてくれていた。たいがいは二十代の若者で、派手なシャツ一枚できている者もいて、今夜は何の集まりか知らないのもいるようだった。その中にRもまじっていた。無作法だと千恵からたしなめられた青年で、半年ばかり日本に行ってきて帰ってきたばかりだった。太一の前にきて、何が言いたい様子だったので、
「婆ちゃん、もうおらんよ」
と太一は声をかけた。
「うんー」
Rは口下手なところがあって、うなるような声をだすと、自分の態度のとりようにも困惑したようで、太一にちょっと頭をさげて仲間の群れにはいっていった。
形式だけの悔やみの言葉よりも、Rの愚鈍ともとれる肯定のほうが、寂蓼の滴となって太一の胸にしみた。
「はやいものですね、千恵さんが亡くなってから、もう一年になりますか、今夜はお線香をお上げしたいと思いましてね」
などと挨拶をする年寄りは、嫁がわの縁につながる人で、千恵が在世の頃ちょくちょく来ては話をしていた老女であった。
死者に関するすべての行事には、ほんのわずかな人々の他は、心底にかすかな喜悦を秘めて臨むといわれるが、この法要も会食の場になって騒然としたものになった。生前の千恵は賑やかなことが好きで、なにかと意味をつけては人をよんでいたので、これはおれの供養になったほうが柄にあうのではないのかと、太一は思ったものである。
太一は自分らの五十年ちかくの、干恵との結婚生活は何だったのかと、回顧してみると二人で演じた芝居はどうあったにしても、片方のかけた現在では、すでに幕のおりた舞台とおなじで、演りかえのできないのに太一の心残りがあった。
ずっと以前に、ブラジルでも巡回公演された、ひとり芝居「土佐源氏」を太一はわすれられないでいる。錦繍のぼろをまとった橋下の乞食芸人のかたるテーマは、身分や財産にかかわりのない人間の真情のふれあいである。