農業─商業―加工業の流れを形成
長期的に見た場合、開発前線の日系社会の産業は、農業が本流であった。が、そこから枝分かれして商業という支流が形成された。その形成者がアルマゼン、特に仲買に力を入れた人々である。彼らの中で力をつけた者は、さらに農産物の加工業にまで進出した。
この動きを把握すると、経済面から見た──産業組合以外の──歴史の流れが見えてくる。上野米蔵は、その流れの形成者の中でも屈指の存在であった。
1963年、米蔵は自宅をカンバラーからサンパウロ市内アクリマソンへ移した。アサイ綿花の実務は、息子たちに任せた。
1966年、アサイ綿花は、最大の取引先の紡績工場がコンコルダッタ(和議倒産)に陥り、存亡の淵に立たされた。が、最悪事態は回避した。
同じ頃、米蔵は福岡県人会長となり、さらに同志達と県連(在伯都道府県人会連合会)を創立、二代目会長を務めた。1973年、心臓麻痺で永眠した。78歳だった。
その後、アサイ綿花は一時、各地で精綿工場を操業、業界大手の一つに数えられるまでになった。しかし、いつの間にか、その名が表に現れなくなった。
筆者は2013年、アサイを訪れた時、ある建物の傍を車で通った。柵の内部の、無秩序に枝を伸ばす樹木や雑草の向うに、屋根が見えた。廃屋の様な感じだった。同行してくれた人が「これがアサイ綿花の跡です」と教えてくれた。1990年代半ばに操業を終えたという。この地方では、棉が栽培されなくなったためという。
名門ファゼンダ、南銀の手に……
話の時期は、1950年代半ばまで戻る。北パラナの邦人社会に、誰もが「エッ?」と聞き返す噂が流れた。
「ブーグレが南米銀行の手に渡った」というのである。
ブーグレは、北パラナの名門ファゼンダと言われるようになってから久しく、その威光は俗に言う「たいしたもの」であった。(それが、自分たち日系社会のちっぽけな銀行の手に? そんな事があり得るのだろうか?)と、信じられなかったのである。しかし噂は事実だった。
邦人社会には、かつてこのファゼンダで、半農奴扱いの屈辱を味わい、自分の非力さを泣いた人が多くいた。そういう経験のない人も含めて、ともかく痛快なニュースであった。
この一件、資料類で読んだ時、筆者は最初、ブーグレの所有者アントニオ・バルボーザあるいはその継承者が、南銀から受けていた融資の清算が出来ず引き渡した──と判断した。事実そう記す資料類もある。しかし念のため、2015年2月、地元の一住民に電話で訊いたところ
「私は、その少し前に移住してきたが、南銀に渡った時、ブーグレを所有していたのはバルボーザ家ではなく、別のブラジル人だった。アントニオ・バルボーザも、すでに亡くなっていた」
ということであった。
とすると、バルボーザ家はブーグレを、それ以前の段階で手放していたことになる。
恐怖の降霜
では、ブーグレの経営状態は、何故そこまで悪化していたのだろうか。牛窪襄の著書によれば、1953年に二度、1955年に一度、降霜があり、それが致命傷になったという。この霜という奴が曲者である。
霜は、農業に無縁の人にとっては、ただの微小な氷片に過ぎない。前夜、底冷えするだけである。が、農業者にとっては死活に関わる災難である。降霜は恐怖である。作物によっては一夜にして全滅してしまうのだ。カフェーも霜に弱い。牛窪は、カフェザールで働く人々の降霜に対する恐怖感を、こう表現している。(つづく)