一九五八年に渡米した村瀬成子さんは日系米国人二世の健二さんと一九六五年に結婚。子供は長女エミリーさんを筆頭に娘が三人、孫は一人。青森県出身。寒い東北地方では体の暖まる雑煮が正月料理の中心となる。村瀬家もそうだ。雑煮以外にも、伝統的なお節料理が食卓を飾るが、成子さんは直接だれかに教わったことはない。
成子さんが子供のころ、母方の祖母が正月の台所を取り仕切っていた。その風景と味を思い出しながら、そして料理の本を熱心に見ながら、お節料理を自分でつくってきた。そして、「『黒豆』は真っ黒になって働いて、『きんとん』はお金が貯まるように、『数の子』は子宝に恵まれるように、『エビ』は腰が曲がるまで長生きできるように」というような料理の意味を子供たちに教えた。
大みそかには村瀬家でも年越しそばを食べる。が、ふつうと少し違うのは「細く長くではなく、太く長く生きたい」ということで、そばではなくうどんだという。
長女エミリーさんは子供のころはお節料理はあまり好きではなかった。元日は朝八時に起こされ、「甘くて、訳の分からないものを食べさせられた」。高校生のころ一度、その「日本文化」に反抗したことがあった。そこで母の成子さんは「それなら、好きなものを食べなさい」と子供たちの食べたいと言ったものを用意した。そして元日の食卓にはタコ、パンケーキ、飲茶などが並ぶことになった。それを見た子供たちの反応は「これ、お正月?」。「やっぱりお節を食べないと、お正月らしくない」とエミリーさん。知らぬ間に日本の心が宿っていた。
エミリーさんは大学時代に交換留学生として、一年間日本に滞在した。それを機会に、さらに日本文化への理解が深まった。今では「お母さん、『紅白歌合戦』見なくちゃ」と、エミリーさんが言うほどだ。
エミリーさんはもちが大好き。以前、ワシントンDCにいたころは日系人が集まって、きねとうすでもちつきをしていたという。今でも新婚旅行のときハワイで購入したという旧式のもちつき器でもちを作る。「料理はあまり得意ではない」と言うが、もちつきだけは毎年かかさない。
成子さんは「子供たちが日本に行ったとき、戸惑わないように」という気持ちからお節料理を作ってきたが、「私がやりたいから、やっているというところもあります。私の郷愁かもしれません」と言ってほほえんだ。日本文化の継承者であるエミリーさんは「手間のことを思うと、今は自分でお節を作ろうと思わない。でも四十歳くらいになったら、するのではないかなと思います」。
◇シスコで仕込んだ日本の味
一世の知恵、子供から孫へ
サンフランシスコ生まれ、神奈川県小田原市育ちの関野菊代さんは六十八年前にサンフランシスコに戻ってきた帰米二世。娘二人、息子二人、孫七人、ひ孫は六人いる。
関野さんは日本にいたころはお節料理を作ったことがなく、サンフランシスコに戻ってから覚えたという。日系一世の人たちは集まって一緒に料理をしたり食事をしたりすることがよくあり、そういった集まりに参加して料理を覚えていった。
毎年、お節料理の準備には四日ほど費し、現在はすべて自分一人で用意する。孫やひ孫の喜ぶもちつきもかかさない。一世の人から譲り受けたきねとうすで息子や孫がもちをつく。夫から息子へ、息子から孫へ、そして将来はひ孫が引き継ぐ関野家の伝統だ。
関野家の人たちは日本食で育ってきた。お節料理も、数の子、かまぼこ、黒豆、きんとん、にしめなど、純和風だが、ひとつ米国を感じさせるものは、「照り焼きチキン」。子供から大人まで米国で人気のある照り焼きチキンは、ここでも登場する。「お肉の好きな子供のため」だそうだ。
正月はお節料理は食べることだけではなく家族がそろい楽しいひとときを過ごすというかけがえのないもの。関野さんも含め、感謝祭よりも行事としては大きいという日系人は多い。お節料理ももちなどは、孫やひ孫に見せるためにも関野さんは「やめるわけにはいかない」と言う。
最近は日本でもお節料理を作らずに買ったりレストランなどに注文して済ます人が多くなったというが、関野さんの中には若い世代の人たちが正月料理の文化を引き継いでほしいという気持ちがある。それには「まず食べて覚える。手作りのものはやはりおいしいし、料理はやればだれにでもできることなんです」。実際、米国に来てからお節料理の作り方を学んだ関野さんは、明快に答えた。