高田フェルナンド・リベルコン社長(四九、二世、元文協理事、前日伯学園検討委員会委員長)は、「日系人が喜んで入会するような、日系人にとって価値ある中央組織を再建する必要がある」と提言する。日系人の価値を高めるような組織、日系人が誇りを持つことができるような団体が日系人にとって価値ある組織といえる。援協の会員は一万人を超えなお増え続けているのに、会費を払っている文協会員は千人以下で減少の一途をたどっている。援協は会員にとって役に立つ団体で、文協は会員にとってほとんど価値のない組織に衰退してしまっている。
文協がやれなかったことを、新しく出来た連合会組織がやろうとしても、スタッフが同じであるかぎり文協同ように失敗することは明らかだ。まず文協役員は無力を認め、能力のある人と交替することが先決だ。
ブラジルを代表するような一流の組織をつくり立派な業績を残せば、日系人は文協に積極的に入会してくるだろう。具体的には「出稼ぎ問題の解決」、「日伯学園の建設」、「ブラジル社会に提示して恥ずかしくないような立派な史料館の建設」、「ブラジルで最高と言われるような病院建設」などが挙げられる。これらの事業の実現は、日系人をブラジル人から再評価させるものであり、日系人の社会的ステータスを引き上げるものだ。これらの事業、施設によって日系人は日系人の誇りを持つことができるだろう。
二十一世紀には、これらの事業を実現できる人を日系団体の代表に選ぶ必要がある。これらの事業を実行に移すことによって、優秀な日系人は日系社会の代表になってもいいと考えるようになっていくだろう。今までは逆であった。悪循環から好循環へと流れを変えていかなければならない。
高田さんは、「文協の会長一人を変えてみても流れは変わらない」とみる。「企画して実行するグループを組織することが必要」で、まず新聞などのマスコミがその必要性を日系社会に強く訴えていくことが大事だと主張する。高田さんは、「日系社会から集めた金以上に価値あるものを作り、予算以上のプロジェクトを作成し成果を上げることによって初めて日系社会は好循環に入ることができる」と力説する。
文協会長は就任演説で、「何もしないのが文協会長の仕事だ」と結論づけ、「文協を船に例えるなら、今は入り江に入って嵐が通り過ぎるのを待っている状態だ」と現時局を表現した。「嵐の通過を待つというのは、団体の代表として能力のない人の言うことだ」と反発する声があった。経済、政治の嵐の中で何かを準備し、戦略を立てるのが会長とその頭脳集団の仕事だろう。カルドゾ大統領とマラン蔵相を中心とする経済政策策定グループがハイパーインフレを見事に鎮静したことを例に挙げるまでもないことだ。
高田さんは、文協会長に絶対不可欠な条件は「日本語ができること」だという。日本文化を継承する日系社会を代表し、日本本国と交渉するには日本語は欠かすことはできない。次に大事な条件は、個人企業の運営に成功した人であること。その理由として「企業経営に失敗するような人は組織経営の才能がないだけでなく、まず失うものがない。成功者と失敗者とではおのずから責任感が違ってくる」と説明する。次の条件は日系社会に対し聞く耳を持つこと。社会の需要を総意としてまとめ、その要求を企画化して実行に移す能力が求められる。公益団体の会長の仕事は、第三者を満足させることだ。高田さんは、「文協会長の仕事は、個人企業を運営するよりも十倍も難しい」と断言する。
以上の意味で、高田さんは現状ではまだ三、四世には日系社会をまとめる能力はないとみる。
高田さんは「文協の中に、役があって何もしない人には辞めてもらおうという雰囲気を作る必要がある。何もしないことは恥ずかしいことだと感じさせるような環境を造らなければならない」と、文協役員たちの精神環境の改革を訴える。
文協であれ連合会組織であれ日系社会の代表者にふさわしい人材を探すには、数年を要するだろう。長期的な人材発掘運動を展開しつつ、規制組織の現状を維持していく必要がある。現状維持のための短期計画と、人材発掘のための長期計画を立てなければならない。そのためにはまず現評議員長が辞職し、文協の短長期計画を立てる能力のある人が評議員長に就任しなければならない。
高田さんは、「文協評議員長は文協を改革する意志がないなら辞めるべきだ」と主張する。「会長にやる気があれば、会長としての能力はついてくるものだ」ともいう。日系社会の体質を改善すれば、人材はおのずから出てくる。そのときは現在の役員たちは居られなくなるだろう。例えば、一流企業に働くスタッフとそれより下のクラスの企業の社員とを交替させることはできない。クラスの違うウサギと亀は、運動会で一緒に駆け比べはできないのだ。
アラブ系の文化団体では成功者たちが競争して寄付し、役員を引き受けたがっている。