アマゾンに挑んだ若者たち-子孫は各地で繁栄
昨年十月に高拓生七十周年記念式典がアマゾナス州マナウス市で行われ、高拓生とその未亡人や子供、ほか関係者が集まった。高拓生とは、国士舘高等拓植学校または日本高等拓植学校で学び、アマゾナス州ビラ・アマゾニアにあったアマゾニア産業研究所で実習を行ってアマゾン開拓を目指した人々のこと。高拓生とその家族に、各自が辿った軌跡を尋ねた。
◇開拓者として来た千葉さん-重労働のジュート栽培
アマゾナス州マナウス市在住の高拓四回生の千葉守さん(九〇)は宮城県仙台市出身、「ブラジルには移民でなく開拓者として来た」と話す。日本高等拓植学校に通っていた時、上塚司校長は毎週一回学校に来て「人の輪を大切に」と説教した。毎朝歌う校歌には上塚校長の理想が込められていた。「碧(みどり)綾なす大空に 金色の色照り映えて 霞に咽ぶアマゾンの 流れゆたけき朝ぼらけ 草踏み分けて岸に立つ 健児の胸に希望あり」。アマゾンを開拓して新文明国家を建設する夢を抱いた。しかし現実は厳しいものだった。
一九三四年にウアイクラッパ移住地に入植した千葉さんはジュート作りを手がけ、椰子ぶきの仮小屋に住んで重労働をした。ジュートは二週間水に漬けて腐らせてから洗う。川が増水すると背が立たなくなり、血液の循環が悪くなって腰や足が痛んだ。ジュート作りには高台耕地が適しているが、いい土地は先に入った人たちが使っているので、土地作りから始めなくてはならなかった。
戦争になっても植民地にいる日本人たちは生命、財産が保障されたが、行動は制限された。集会禁止、戦時中はラジオを聞くことは許されなかった。家宅捜索されたり軍服を着た人物が写っている写真を焼かれたりした人もいた。千葉さんの場合、敵国だからという理由でカマラーダの来手がないのには困らせられた。
マナウス市に移ってからは雑貨販売を営み、高齢になって仕入れが難しくなったので四、五年前に辞めた。去年四月十六日に妻のしげるさんに先立たれた。子供は五人、皆近所に住んでいる。近所に日本語学校がなかったので千葉さんが日本語を教えたが続かなかった。足が不自由なので付き添いがいないと外出はままならないが、体は元気で大きな声で溌剌と話す。平日は孫の世話を引き受けている。
◇ジュートの父尾山さん-天祐のように種子発見
ジュートの優良種を発見した故尾山良太氏は「ジュートの父」として有名である。その次男にあたるのが尾山多門さん(八二)、一九三二年十四歳で来伯、パリンチンス市に住んでいる。九歳年長の兄、故万馬さんは高拓二回生だった。多門さんは亡き父にまつわる思い出とジュート発見のエピソードを語った。
尾山良太さんは岡山県後月郡出身。農業新聞を発行したり、三蘭農協組合理事や岡山県憲政会遊説部長を務めた。政治家を目指して立候補するが落選、犬養毅とも繋がりがあり、アマゾニア産業研究所岡山県支部長でもあった。上塚司氏から誘われて迷いに迷ったが、一九三二年十一月もんてびでお丸で五十歳の時に家族で来伯した。
アンジラ植民地でインド産ジュートの種子を蒔いたところ、他のジュートより背が高くて枝がない株が二本あった。二本のジュートが水に流されないよう丸太を四本立て、つづらで四方を囲んだが、残念ながら一本は流木に倒されてしまった。もう一本が倒されないように、多門さんはカヌーに乗って釣り竿を持って見張りをした。そして十二個の実から胡麻のような種子が各四十~五十粒、計約五百粒が取れた。天祐のようなジュート発見だったが、これも良太氏の出身地がい草の産地で、ジュートとい草が同じ繊維植物であることから目が利いたからできたことかもしれない。
一九三五年にアマゾニア産業研究所はフォルモーザ島を買収して尾山良太と中内義三の両家族に試作栽培を依頼した。収穫されたジュート繊維は非常に良質であると認められ、タワコエーラ、サンタルジア、ボアフォンチ他高拓生がパリンチンス付近の低湿地帯に進出してジュート栽培を始めた。
当時コーヒー輸出用の袋は全て輸入品であったが、戦後になるとジュートは輸出産業となり、外貨節約にも大きく貢献する。この「尾山種」によってアマゾンのジュート産業は飛躍的な発展を遂げる。
ジュートを刈って皮を腐らせて中の繊維だけを抜き取る。茎を再び水に漬けて上に重しを置いて数日間おく。高拓生ネットワークによりレガトンという交易商売が発達した。船でベレンとマナウスのアマゾン川を上り下りして物々交換が行われた。
高拓生の尾山万馬さんはカスタニャール日伯文化協会の会長をつとめ、地元のブラジル人社会より私設日本領事と言われるほど日伯友好に尽くした。妻のノエミさんは健在である。
高拓生のことを高拓生以上に知っている多門さんは、パリンチンスで悠悠自適の隠居生活を送っている。パリンチンスの有名な踊りボイ・ブンバのことを、「以前は原始的な踊りでよかった」と話していた。
◇東海林さん87歳 なお健在-数奇な運命の体験も
高拓七回生の東海林善之進さん(八七)は、アマゾナス州第二の都会、パリンチンスに住んでいる。ここは高拓生が初めて到着したビラ・アマゾニアにほど近い。十八年前にトモヨ夫人を亡くして以来、パリンチンスの一軒家で一人暮らしをしている。再婚を勧める人もいるが「いい年してそんな気はない」と笑う。財産は既に処分し、子供たちが争う要因はない。
東海林さんは宮城県仙台市栴檀中学校で学んだ。曹洞禅宗の学校で、二年先輩に仏心寺南米別院の初代開教総監である故新宮良範さんがいた。「友達を作る学校」日本高等拓植学校に学んだ後、東海林さんは岩手県石巻市の協同組合に三年間勤務してから故トモヨ夫人と共に渡伯した。ブラジルまでの船旅は新婚旅行のようで楽しかったが、九十日間皆と一緒でプライベートな時間が持てなかったのがつらかった。十七、八歳の高拓生は二十三歳の東海林さんを「親父」と呼んで慕い、東海林さんは若い彼らのまとめ役だった。
ビラ・アマゾニアに到着後、アンジラ模範植民地に入植、ジュートやガラナに従事し、浮浪者以下の最低生活を送った。最初のうちは日本から持参した洋服を着ていたが、苛酷な労働を続けるうちに服はボロボロになり、弱った体はマラリアに罹った。多くの高拓生は女学校卒業者と結婚していたが、その妻は大変な苦労をした。それでも子供たちへの教育は決しておろそかにしなかった。
そして戦争。その最中に東海林さんは大変な目に遭う。ある時東海林さんがアンジラ模範植民地からパリンチンス市へ税金を払いに行った。何時間もカヌーを漕いで疲れたので一晩休もうと舟の中で寝ていたところ、警官がやって来て留置所に入れられた。そこで鞭で「四十七回」打たれた。最初の三、四回はとても痛い。しかし十回以上になると痛みも感じなかった。
東海林さんは自宅で非日系人に日本語を教えている。いろいろな人と話すことがポルトガル語の勉強になる。新聞「ア・クリチカ」の政治欄を読むのが好きだという。かつては文協でも日本語を教えたことがあり、訪日した際にその時の教え子宅に泊まった。秋田大学の肥田教授がアマゾン川で水質検査をするためパリンチンスを訪れた時には、東海林さんが案内した。
三回目に訪日した際、東海林さんは日本高等拓植学校の恩師である故木内謙一さんと六十年ぶりに再会した。この時東海林さんは日本で働く日系二世らの働く会社の経営者と会って、公私にわたる協力を依頼するという目的があった。日本で働くブラジル人の様子をビデオに撮って祖国の家族に見せようと、百キロ近い機材を持ち込んだ。木内さんは自宅の一室を提供し、ビデオの編集作業や訪問活動の拠点として利用してもらった。
何か助けがある時は協力を惜しまない東海林さんだが、自分の身をわきまえて引くべき時を心得ている。「年寄になってから偉そうなことを言ってはいけません」。
◇高拓生子女の吉丸さん-同窓生と半世紀の再会
高拓三回生の故小海半治さんの三女、サンパウロ州サント・アマーロ市在住の吉丸小海ナイジさん(六一)は、マナウスで行なわれた高拓生七十周年記念式典に出席した。高拓生は単身、もしくは夫婦だけで来伯した人が多く、親戚がブラジルにいないので、高拓生が家族ぐるみの付き合いをしている。
日本高等拓植学校を卒業した三回生はできる限り結婚して妻と共にブラジルへ渡るよう勧められので、半治さんは女学校卒業の茂さんと結婚した。半治さんは同期の谷正一さんと小谷裕次さんらと共にジュート栽培に携わった。
半治さんはよく「変人でアバンチュールが好きな人しかアマゾンに来れない」と言っていた。戦争が始まるまでは毎年三つのこおりが届き、ナイジさんは子供時分に中に入って遊んでいた。高拓生はお金がなくても子供の教育には力を入れた。父親が「お金は泥棒に盗まれるが、頭の中にあるものは盗まれない」と言っていたのを覚えている。
ナイジさんは十一歳でパラー州サンタレン市の寄宿学校に通った。ここには高拓生関係者子女が通っていた。高拓生七十周年記念式典で、学校の同窓だった戸田タン・アマゾニアさん(六八)と約五十年ぶりに再会し、感激して涙を流して抱き合った。
半治さんは一九七一年、サンタレン市近郊のタパラ市に移る。その後日伯両語が堪能な半治さんは、ベレン市のアマゾニア病院事務所に長く勤めた。勉強家でポルトガル語の分からない単語があると、夜中でも辞書を引いていた。半治さんは十二年前に心臓マヒで急死した。
◇再来伯した秋山さん-会員名簿づくりに精魂
高拓生とその家族同士は強い絆に結ばれているが、それを助けたのが高拓会会報と会員名簿であった。高拓一回生の秋山桃水さん(九〇)が長年一人でこつこつと作り続けた高拓会会報が高拓生の消息を伝え、何か集まる機会があると会員名簿が連絡を取るのに役立った。高拓生とその家族で秋山さんのことを知らない人はいないだろう。
秋山さんは大阪府堺市にある明現寺に生まれた。父の名前は久我降真(りゅうしん)、母は田鶴。秋山家再興のため、久我から秋山に名字を変えた。秋山さんは大阪府立堺中学校卒業後、国士舘高等拓植学校に入学、一九三一年に渡伯した。アマゾニア産業研究所付属実業練習所を卒業後、首都で働きたいという希望から粟津金六所長の口利きで一九三三年にリオデジャネイロ市のジョルナル・ド・ブラジルに庶務として八年間勤務した。四一年リオ大使館商務書記官助手として転職するが、その翌年日米開戦となり大使館が封鎖して、外交官交換船で帰国する。
戦時中はインドネシアの木造船会社に勤務後、米国第八軍地方物産収納倉庫で英語力を生かして働いた。秋山さんが学んだ堺中学は英語教育に力を入れており、毎年アメリカ人教師が派遣されて英語を教えた。
一九五三年に日伯中央協会が再建されたので、秋山さんは転職し、事務局長としてサンパウロ市四百年祭の日本側の裏方を支えた。日本側はイビラプエラ公園に日本館を建設してサンパウロ市に寄贈した。ブラジル日系社会側はサンパウロ市四百年祭祭典日本人協力会の役員は山本喜誉司会長、粟津金六副会長、藤井卓治書記長が務めた。
東京銀行がブラジルに開設されることになり、秋山さんは銀行業務に携わるため一九五五年、再度ブラジルに渡ることになる。この時に高拓会会報と名簿を一人で作った。秋山さん作成の会報は二百七十号以上を数えた。現在は憩の園で暮らしている秋山さんは足が多少弱っているものの、故山本喜誉司氏の孫の来訪を楽しみにしている。
◇熱帯農業志した徳田さん-地域の発展に寄与
パラー州パリンチンス市在住の高拓三回生徳田源爾さん(八八)は山口県山口市出身。長府中学校五年生の時、満州か南米に行きたいと思った。アマゾンで農業をするために一九九三年にブラジルへ渡り、マムルー川奥地にあるソミアンに入植した。日系人は自分ただ一人で、現地の人々と一緒に働いた。初めは米やマンジオカ、ガラナを栽培し、ジュートが発見されてからは尾山良太氏の元に種を取りに行ってジュートの栽培を始めた。その収益はソミアン地域発展のために寄付をし、教会や学校を建設、「町は自分の子供のようなもの」と話す。
戦争が始まると移動が制限されて州外に出られなくなった。戦争で弟がマニラで戦死、兄一人が生き残った。父母の死も亡くなってから四、五年経って知った。
足が悪くなってからパリンチンス市に移った。「一番いい場所で一生を過ごすことができ、上塚校長に感謝している」。