私は孫に玩具を買ってやりました。そこをでてもまだ早かったので、セアザ(中央市場)を見学しました。家では一日はすぐたつのに、このような行楽にはいろいろなところがみられて、一日はながいものです、村の会館についたのは午後の七時でした。五月0日、晴れ、今日もアルファツセきりです。わたしも五時には畑にいます。荷をだしてからは昼食をし、それからは動きづめです。そんな毎日ですから夜ははやく寝ます。
この日記は千恵が五十代のころのもので、孫もできていたし丈二は車をつかって作物を中央卸市場にもってゆくほどで、奥地での苦難はとおくなり忘れられるほどの境遇に松山家はあった。追い風をうけた帆船のような家運に、なおその上に棟をあげようとする、上気した千恵の意気が感じられた。
太一夫婦は小さいながら地主になり、かねて念願の人なみの暮らしがなりたつようになった頃、五年からの古い入植者で、小川をはさんで北山の家族がいた。地ならしをした岡に煉瓦づくりの白壁の住宅、そのしたに幾棟かの養鶏小屋、裏につづく山腹は、葡萄、枇杷、桃などの果樹園になっている。北山は村でも裕福なほうで、一段たかくとまっているという風があった。なにかの折、北山家に慶事があって太一も招かれていた。
かってのH村のように除け者にはされなかったが、個人としての付き合いはなかった。太一はこれからのこともあるし、顔だけでもだしておこうと思った。北山家はほんの目の前にありながら、小川に橋はなかったので、彼は二キロも下流にさがって慶事の家についた。
その日、太一はいつも見ている北山家の側から、はじめて自分の地所を見たわけであった。よく整地された畑はまあー人なみであったが、低い屋根に瓦をおいただけの泥壁の家は貧農そのものであった。太一は年々の収益をまず農機具と灌水の設備に投じていたので住居にまでは手がとどかなかったのである。丈二も一人前になってくるし、来年あたりは家でも建ててみるかと、晩飯のあとで話題になるようになった。
千恵が婦人会できいてきた話によると、北山は小金をためていて、それをうまく運営している賢い男のようであったが、-面では車道楽というのか、新車がてるたびに替えていた。日本人会の集まりに新車のピカピカがきていると、それは北山のであった。
いつだったか、千恵がー北山さんの奥さんは得ですねー、と大一に当てこすりを言ったことがあった。それというのも北山は週に二回土曜日とか日曜日に、細君をつれて車で町に出かけるからであった。それがなぜ分かるかといえば、夜になって北山が帰宅すると、道の具合で車の前燈が太一の家や倉庫を、強い光の束でひとなぜするからであった。どうかすると、千恵たちの夜業とかちあうことがあった。太一の体調もよほどよくなっていたので、軽い作業、箱に品物の等級別のゴム判をおしたり、出荷伝票をそろえているとき、どうかすると、向かい側の闇から光の束がさあっとくることがあった。千恵は視線をその方にむけて、
「北山さん、今日もどこかへ出かけたらしい」
太一に聞こえるように言う。彼は女房の気持ちはよく理解できるのでコクリと笑う。千恵は生来にぎやかな人のよる処がすきなのだ。演芸会とか、カラオケのかえりにレストランなどによるのもわるくない、夫の音痴とちがって、私もその気になればかなりに歌えると、彼女は思う。ところが夫はなんという変人だろう。世人の楽しみごとはたいてい無視するか、冷笑する。だいたい人の集まるところが嫌いというからこまった人だ。