米国カリフォルニア州で起こった慰安婦像建設反対運動で、中心的な役割を果たした目良浩一氏の共著『マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人』のポ語版『A VERDADE SOBRE A GUERRA DO PACIFICO(太平洋戦争の真実)』が、本紙より翻訳出版される。第二次世界大戦開戦の真相や不平等に行われた『東京裁判』の実態、今も残るGHQ占領統治の後遺症など、日本人に知らされていない事実に光を当てた。9月12日午後2時から、著者を招いて広島県人会館で刊行記念講演会を行なう(後日詳報)。それに先駆け、目良氏が同著を書き上げるに至った動機について述べた部分を6回に分け掲載する。
人種の坩堝であるといわれてきたアメリカであるが、我々の居住するロスアンジェルスではモザイク社会と表現したほうがより適切である。市の北東部にチャイナタウンが広がり、市の中心から西の方にコリアンタウンが伸びている。
東南部にはラテン系が多い。高級住宅は北部の丘のふもとに連なっている。このような環境に居住していると、常に国際問題を意識しながら生活することになる。
しかし、外国人比率のきわめて高い南カリフォルニア大学のビジネス・スクールで教鞭をとった著者の経験では、国籍や人種が物事を決める要因ではなく、議論の内容が常に問題であった。
学生はある特定の問題点について意見を述べる。その意見について他の学生が別の意見を述べる。全ての学生が、堂々と自分の見解を述べる。それが通常の授業の進行なのである。インドからの学生であろうと、中国、台湾、韓国、ペルーからの学生であろうと、皆正々堂々と自信を持って発言するのである。
議論の説得力が問題であり、説得力が弱ければ誰がそれを発言しようと人を説得できない。それが、アメリカ社会であり、アメリカの大学なのであり、国際的基準であると考えても良いであろう。
ところが、日本に関する国際関係を見ると、全く様相が違うのである。韓国の李明博大統領は、オバマ大統領と対等に対話をする。要求もするし、拒否もする。ところが、日本の総理大臣は話したいことも話さないで、会談を終わる例が多い。
後の、官邸からの発表によると、その会合は信頼関係を築くことを主目的としており、実質的な議論にはならなかったと解説される。
しかし、具体的な案件の話をしないで、信頼関係が築かれることは無いであろう。具体的な案件をめぐって議論する中で、相互信頼が生まれるのであり、単なる挨拶を通じて信頼関係が生まれるなどと言うことはまず無いのである。
即ち、日本の政治家は国際政治の舞台で「借りてきた猫」のようになるのが普通で、オバマ大統領と会談するプーチン大統領のような堂々とした対等なる行いを期待していた人には、大きな失望感が残る。
それ以上に多くの在米日本人や日系人は激しい憤りを感じ、その気持ちをどこに向けることも出来ずにストレスを抱え込むのである。
なぜ、日本の総理大臣は、李明博大統領やプーチン大統領のように毅然として自己主張をできないのであろうか。日本国は、他と何らかの意味で異なった国ではないだろうか、と言う疑問が湧いてくる。
ロスアンジェルスに10年程居住して、自分で大学での定年を設定して引退を考えていた2006年の夏に、ハワイのリゾートでたまたま『東京裁判』と称する図書を呼んだ。
その著者は決して過激派に属するものではなく、第二次世界大戦の終了後に行われた国際的な裁判をかなり客観的に記述したものであったが、私の血を逆流させるに十分であった。決して公平な裁判ではなかったのである。
この不公平な裁判によって、日本国は侵略を犯した犯罪国家であるとされ、その後は手足を奪われ、1945年以降アメリカの意向を伺いながら、実質的には属国として、国家が運営されてきたのである。このような受け取り方は世界で生活したことのある人間なら誰しもが常識的に理解することである。