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死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(3)

カッペンに辿り着いた知花真勲・恵子の家族

カッペンに辿り着いた知花真勲・恵子の家族

 振り返ってみて、自分達が夢にまで見た入植地カッペンが、こんなにも難関で遠隔の地とは思いもよらなかった。
 地図で見るブラジル大陸と、今辿ってきた現実の道程、その差はこれほどまでに予想に反するものかと、ブラジルの大陸の広大さを改めて実感せずにはおれなかった。

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 入植地までの道程は、まだ程遠くあり、これから更に奥に入っていかねばならない。
 見渡す限り赤く低い雑木のカンポ(野原)には、モスキットが一面に生息しており、子供達に気をかけながら前進を続ける。
 しばらくして前に現れたのが、かつて日本人の入植者が住んだところで、カッペン移民の先発隊や、2次・3次移民の仲間達が休息地として、ここから40~50キロもある奥の入植地へ、測量や道造り・住宅建築、その他の作業にとって不可欠の中継地として利用した「旧カッペン」と称する所であった。
 先発隊移民の皆様は、本耕地手前5キロの地点に後続受け入れのため、仮住まいの家族ごとの小屋を作りここより耕地に通い、前記の諸作業を行った。私達4次隊は、やっとここで船倉荷物の大コンポーの縄を解くことができた。
 ここから、与えられた入植耕地まで、あと5キロの道のりだ。子供たちも連れ、徒歩で通い開墾作業に従事することを思い、いよいよ初期の目的である開拓に向けて改めて心が躍動し、情熱が湧き出たものだ。
 ところが、先発移住からすでに約3カ年が経過し、その間に測量はじめ開墾、家造り、そして自給農作物の米やマンジョーカ、いろいろな野菜が植えられ、また、永年作のゴムやコショウ等も植え付けられているものの、その作物の生育がままならず、移住者のほとんどが脱耕するようになっていたのだ。
 実は、作物が実らないのは、土地が酸性土壌のためで、植え付けても育たないのだ。将来に希望が持てず、永住に見切りをつけ、脱耕者が続出し、その殆どがカンポ・グランデ方面に後戻りして、退却したのであった。
 カッペンは、マット・グロッソ州の北に位置し、アマゾン上流の人跡未踏の遠隔地で、交通の便は、皆無といってよい。退耕するにもこれまた500キロ離れた、通ってきたクィアバー市まで行かなければトラックも借りることができない。
 それに往復の運賃、費用等も含み、手の負えない状況で私達4次移民を運んだトラックの帰りを利用し、私達と入れ替わりに退耕していく有様であった。
 当時の私達には高さ20メートル余の大木の原始林を目のあたりにして脱耕者がいることは不思議でならなかった。私たちは、石の上にも3年、と意志は固く、一日も早く仕事に励みたいという心境で、他のことは気にも止めなかった。いよいよ定着の構えができ、耕地の開墾に取りかかった。