編纂中のコチア青年移住60周年記念誌に対し、安倍晋三内閣総理大臣、岸田文雄 外務大臣、林芳正農林水産大臣から祝辞が寄せられた。60周年記念特集に際して、コチア青年の存在がいかに広く認識され、祝われているかを示す証左としてこれを掲載する。
未来へ継承される不屈の精神―共に歩む―安倍晋三 内閣総理大臣
コチア青年移住60周年を迎え、記念誌が発行されることを、心よりお慶び申し上げます。
戦後の復興期、新天地を求めて未知の国・ブラジルに移住された皆様が、様々な困難に直面しながらも、未開の地に実りをもたらし、移住地はもちろん、地域や国の発展に大きく貢献されていることは、誠に感慨深く、その不屈の精神と不断の努力に、改めて深甚なる敬意を表します。
コチア移住60年の歴史の中で生まれた二世、三世の方々も、先人の精神を受け継ぎ、農業のみならず、経済、政治など多様な分野において活躍されていることを大変喜ばしく思います。日本人によるブラジル移住も100年以上の歴史を数え、日系社会全体において世代が多様化する中、次世代を担う若者が、さらなる飛躍をされることを祈念しています。
昨年夏、日本の内閣総理大臣としては10年ぶりにブラジルを訪問し、日系社会の皆様と直接お話する中で、ブラジルにおける日系社会の存在とその貢献が、現地で高い信頼と評価を受けていること、そしてそれが、日本全体への信頼につながり、両国の友好を支える礎として大きな役割を果たしてきていることを改めて実感しました。また、本年3月には、次世代の日系人の方々とも東京でお会いする機会があり、日本と中南米の架け橋として御協力をお願いしたところです。
2015年は日ブラジル外交関係樹立120周年の節目に当たります。皆様が長年にわたりブラジルにおいて「信頼」を築いてこられた歴史に思いを馳せ、引き続き、日系人の方々との関係・絆の強化に取り組んでまいります。
日系社会の発展のために、また日本とブラジルの更なる友好関係の深化に向け、皆様方のますますの御活躍と御健勝を心から祈念申し上げます。
日伯友好の絆=岸田文雄 外務大臣
コチア青年移住60周年を迎え、記念誌が発行されますことを、心からお慶び申し上げます。
日本とブラジルの外交関係は1895年の日伯修好通商航海条約調印に始まり、日本人によるブラジル移住は、その直後の1908年に開始されました。両国の歴史は、日本人による移民の歴史とも言えます。
コチア青年の関係者の皆様を始めとする日系人の方々が、その不断の努力により幾多の苦難を乗り越え、今日に至るまで農業のみならず様々な分野で成功をおさめ、現地社会で信頼と評価を得られてきたことに、改めて敬意を表します。特に日伯両国の協力によるナショナルプロジェクトの象徴となっているセラード開発協力は、コチア青年関係者によるきめ細やかな技術指導等の参画によって、実を結んだと言っても過言ではありません。
日系人の皆様が現地で築き上げられた信頼と、人と人とのつながりに基づく両国の友好と相互理解により、今やブラジルは世界屈指の親日国となっています。政治、経済、文化など様々な分野において二国間関係を強化するに当たっては、この信頼は大きな支えとなります。中南米地域の大国であるブラジルは、国際社会の多様な課題に対処するに当たっても我が国の重要なパートナーであり、日系社会の皆様が築いてこられた信頼は、日本外交の資産と言えるでしょう。
本年は日伯修好通商航海条約調印に始まる「日ブラジル外交関係樹立120周年」の記念行事や交流事業を実施いたします。2016年にはリオデジャネイロにおいて、その4年後の2020年は東京において、オリンピック・パラリンピック競技大会が開催されます。オリンピックフラグがリオデジャネイロから東京に引き継がれる歴史的な機会であり、日本とブラジルは、これまで以上に相互の関係に注目し、理解を深め合う時期を迎えます。この大きな流れの中で、今後ともブラジルの日系社会の皆様と絆を強め、経済、科学技術、文化等多岐に渡る日本とブラジルの関係をますます発展させていく所存です。
ブラジル農業に果たした役割=林芳正 農林水産大臣
コチア青年移住の開始から60周年を迎えられたことを心よりお慶び申し上げます。
また、日頃より、日伯友好親善に大きく貢献いただいていることに対し、衷心より感謝申し上げます。
異国の地での様々な困難に立ち向かい農業開拓を行った皆様や先人のご労苦は、さぞかし過酷なものであったと拝察いたします。そのような日系人の皆様のご努力の末の成果と日伯協力によるセラード農業開発により、ブラジル農業は今やその生産力を飛躍的に増大させ、世界の食料の安定供給を担う規模にまで成長しました。日系人の皆様がブラジル農業に果たしてこられたご努力に改めて深甚なる敬意を表します。
今後、ブラジル農業は、付加価値を高めることにより、益々の発展が可能と考えています。このため、昨年、農林水産省とブラジル農務省との間の定期的な対話の場を民間セクターも交えた形で立ち上げました。これは、両国の官民が連携して、両国間の戦略的パートナーシップの強化を目指すとともに、生産、加工、流通、消費に至るフードバリューチェーンを構築することを通じて農産物の高付加価値化を実現し、欧米・アジア等第三国への輸出等を促進しようとする試みです。
また、これまでも農林水産省では、ブラジルをはじめとする国々の日系農業者及び農業者団体を対象に、農業分野での技術研修やビジネス交流及び日系農業者団体間の連携強化を促進する事業に力を入れて参りました。これらの事業により、日系農業関係者相互、さらには日本との絆が一層強まることを期待しております。
コチア青年及びご子弟の皆様におかれましては、今後も、コチア青年移住の不屈の精神を持ってブラジルでチャレンジを続けて行かれると思いますが、農林水産省としましても日伯の架け橋である皆様を今後とも応援してまいりたいと考えております。
結びに、皆様の今後益々のご活躍とご健勝を心よりお祈りして、私の祝辞とさせていただきます。
一足先に前夜祭でお祝い=日本からの来賓を歓迎
コチア青年の移住60周年記念式典の前日19日夜、サンパウロ市のニッケイパラセホテルで前夜祭が行われた。日本から来伯した来賓とコチア青年の約50人が集い、一足先に60周年を祝った。
コチア青年連絡協議会の杓田美代子副会長の司会で開会し、前田進会長は「とうとう60年。日本からの来賓も来て下さり言葉に表せない感激」と真剣な面持ちで感謝を述べた。続いて、体調不良で欠席した梅田邦夫大使に代わり、中前隆博在聖総領事は「明日の式典でお会いできることを楽しみにしている」と語った。
日本農林水産大臣代理の仙台光仁大臣官房国際部参事官は、「飛行機に長時間乗って来たが、船で来たコチア青年とは比べられない」と言い、「明日が盛会になることを確信している」と述べた。
全国農業協同組合中央会会長代理の一箭拓朗役員室室長は、同協会が昭和3、40年代にコチア青年の送出し機関であったことに言及し、感謝の言葉を送った。
オイスカ・インターナショナル総裁代理の渡邉忠副理事長と佐藤貞茂アルファインテル代表取締役の挨拶が続いた後、仙台大臣官房国際部参事官らにアテモイアなどの品が贈呈された。
南雲良治元新潟県人会会長が音頭を取って乾杯し、ブラジル各地から集まったコチア青年たちは賑やかに歓談の時間を過ごした。
最後に広瀬哲洋同会副会長が、「明日は、初めて二世による司会が行われるので皆さん応援してほしい。コチア青年ファミリーの記憶に残る楽しい祭典にしたい」と宣言すると、大きな拍手が沸き起こった。
若き日を振り返り一言=子弟に期待することは
コチア青年連絡協議会(前田進会長)が主催して『コチア青年60周年記念式典』(広瀬哲洋記念祭大会委員長)がサンパウロ州サンロッケ市の国士舘スポーツセンターで20日に行われた。1次1期から最終2次35期まで700人を超える本人や家族、関係者が駆け付け、久しぶりの再会を喜ぶ声があちこちで聞こえた。戦後最大の移住者集団「コチア青年」は2508人を誇り、「チャレンジ精神の塊」と称される。そんな彼らの若き日の渡伯理由や、子弟に対する思いを会場で聞いてみた。
羽振りよさみて「自分も」
亀田定次さん(84、宮崎=1次1回)
亀田定次さんは「家業が農家で自分は三男だった。日本で土地を探していたが、当てが潰れてしまい、そんな時ブラジルから引き上げてくる人達の羽振りのよさを見かけて、『よし自分も』と思って」と思い返す。
「説明会で直接、下元健吉さんから話を聞き、一気にその気になった」。義務農年期間後、養鶏やトマト、バタタの生産に携り、ピエダーデに移住後は苺の栽培を行い、一時は商店まで経営した。
60周年を振り返り、「経ってみたら早いもんだね。ピンと来ない」。日本で働く息子らに向けて「特に求めることはない。私がそうだったように、自分の思うように生きてほしい」と語った。
子に伝わる「仕事の魅力」
益田照夫さん(73、愛媛=2次12回)
益田照夫さんはみかん農家の八男で高校園芸学科を卒業後、19歳で渡伯。「自分の力で何かがやりたくて」と親の反対を押し切り、漠然とした期待を胸に抱いていた。
義務農年期間から現在までピエダーデで農業一筋。名産地として名高い同地の柿栽培に初期から携り、柿の普及、「柿祭り」の振興にも務めた。
15アルケールの畑は長女と長男が継いでいる。そんな子らに向けては「仕事に魅力を感じてくれたのかな」と照れくさそうに話す。「自分はブラジルに暮らせてよかった」と笑顔で語った。
「立派に生きてくれればいい」
田中昭さん(78、佐賀=1次8回)
田中昭さんは、「実家は嬉野茶や米の農家だったが、昔から外国志向で本当は外大に行きたかった。コチア青年の制度を知り、手っ取り早く海外に行ける方法が見つかったとすぐに決めた」と笑いながら渡伯理由を告白する。
4年の義務農年後は農業に縛られずに、ブラジル人に混ざり、サンタカタリーナ州の独国系部品工場に勤めた。しかし、「やはり農業」と組合の融資を受け、イタペーバで果樹園や植林の経営を始めた。
子どもに向けては「昔の二世たちは僕等より日本人らしかったが、時代は変わっている。日本的なものばかりというわけにはいかない。仕事をして立派に生きてくれればいい」と語る。
日本人同士の助け合いが力
瀬戸口忠雄さん(74、鹿児島=2次6回)
瀬戸口忠雄さんは、「日本人同士の助け合いが力になった」と思い返す。義務農年後に独立を目指していたものの、ちょうど制度の改正があり、組合からの助成を受け取れなかった。
そんな矢先、知り合いから紹介された初対面の日本人が保証人を引き受けてくれ、銀行から融資を受け、ジャカレイで農園を開いた。
「今でも大変だけど、最初の頃は特にね」と振り返る。現在は息子たちが販売にも手を広げ、共に花卉や野菜の栽培を行なっている。
「親とコチアの関わりぐらいは憶えていて」
伊藤定雄さん(80、北海道=2次7回)
伊藤定雄さんは通称「コチア青年の村」パラナ州カルロポリス市で30アルケールの土地でコーヒー園を営んでいる。
「北海道にいる頃は自分がコーヒー園をやるなんて」。入植当初の苦労を口にするも「販売ルートが確立されていたことが大きかったよ」と組合への感謝の気持ちを忘れていない。
子どもたちに向けては「ブラジルでの生活は殆どコチアが関わっているから、少なくとも、親がコチアと関わっていたことくらいは覚えていてほしい」と語った。