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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第4回=勝ち組叩きで名を挙げた翁長

翁長英雄が反勝ち組声明を上げるノイテ紙インタビュー記事

翁長英雄が反勝ち組声明を上げるノイテ紙インタビュー記事

 翁長英雄の意見を大々的に報道した1946年4月10日付ノイテ紙記事の主見出しは「A Shindo-Renmei Prosseguira!」(臣道聯盟は突き進むだろう)。副見出しが「Um nipo-brasileiro fala」(日系ブラジル人は言う)になっている。
 二世も含めて「ジャポネース」と一般的に表現されていた時代に、「日系ブラジル人」という表現をおそらく初めて伯字紙上で使った。翁長が強硬に主張して入れさせたのではないだろうか。
 その記事中、終戦後いち早く日本の敗戦をブラジルの新聞に書いたことで「コロニアの裏切り者」と言われるようになったと翁長は明かした。日本語が読めない彼に臣道聯盟の情報を提供していたのは、妹の夫で公証翻訳人資格も持つジャーナリスト山城ジョゼだろう。
 この記事は、臣道聯盟がサンパウロ州の地方部における薄荷生産などのサボタージュの黒幕であると断言し、「今では国民全体に関する治安への危険となった」とまるで一般社会全体に危険が迫っているかのように拡大解釈している。
 この段階ですでに「臣道聯盟をいっぺんに消滅させるためには次の二つの対策が必要だ。一つは日本人とくにその子孫に対して事実を知らしめること、二つ目にはこの秘密組織に関係した総ての人間を国外追放することだ。それらをやって初めて、我々はこの危険から自由になれる」と結論付けている。
 後に実際、臣聯幹部には国外追放令に出されるが、その方向付けをした記事といえる。こうして翁長は勝ち組叩きによってブラジル社会から高く評価され、注目を浴びていった。
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 一方、邦字紙パウリスタ新聞は48年5月11日付で「岸本氏〃戦野に孤立〃か」「筆禍招いた問題の著」「巷間の噂 国外追放」との見出しで報じた。ポ語新聞より1週間も早いタイミングだ。《世間でも岸本氏は前回引致された際からこの事を覚悟していた模様で、国外追放に備え既に事情や家財の整理を始めていると取沙汰しているが~》と、巷の噂という曖昧な根拠にも関わらず国外追放を前提にした、突き放した記事になっている。
 ポ語新聞とほぼ同じ48年5月18日付の南米時事紙は「岸本氏筆禍事件」とし、教え子らが法務大臣宛の釈明署名運動を始めたことを3段見出しで同情的に報じた。
 その中に岸本本人の説明として《戦争中は世界いずれの国も混乱状態であって、この混乱時代に起こった過誤は誰の罪でもない。ただし私は日系市民としてブラジルにおける日本移民の善良さを忠実にその当時の実情を記録して置く必要を痛感した。このために前後の事情や当時の社会情勢を書かなければならなかったが、これは伯官憲への侮辱ではない。ブラジルに忠実善良なる日本移民の立場を書くためやむを得ざる描写である》と弁明している。
 岸本は同記事中《出版が時期尚早であった点は認めるが、自分には何らブラジルを冒涜する気持ちは更になく、常に永住を叫びブラジル教育の必要性を強調してきたものだ》と語っている。『戦野』の初版の奥付を見ると印刷は南米時事新聞社だった。岸本側の立場を弁明するニュアンスが強い記事のようだ。(つづく、深沢正雪記者)