窓外に見る企業の浮沈
先に記したカフェー・ソルーベル・イグアスー社の工場は、2015年現在、操業開始以来、40年以上になる。
筆者は、何度か、その工場の傍を車で通ったが、その威容が周辺を圧倒している様に感じた。同社の製品は国内・国外に広く市場を確保、盛業中と聞く。
同社工場のイナウグラソンの2年後の1973年、日本のカネボウ・シルクが、この地に工場を建設した。当時、日本では養蚕家が減少、生糸メーカーは、海外に生産基地を移していた。
しかし、そのカネボウ・シルクは2005年、親会社の鐘紡が倒産、同業者の藤村製糸へ売却された。
鐘紡といえば、戦前は一流会社であった。アマゾンにアカラ植民地(現トメアスー移住地)を造ったこともある。戦後も長く繊維業界の大手だった。
筆者は、旧カネボウ・シルクの工場の前も通った。藤村の社名を書いた看板が見えた。が、その文字が薄れていた。放置され風雨に晒されている感じだった。藤村も撤収したのである。
車窓からチラリと見ただけだが、企業の浮沈というものを鋭く感じた。
皆、町へ
コルネーリオ・プロコッピオの日系社会について、同地文協の相沢ジョウジ会長から話を聞いた。要旨、
「日系の住民は300家族で、文協会員は150家族。職業は雑多。農業は極めて少ない。日系人が一番多かったのはカフェーがあった時代で、大霜が来るようになってから減少した。土地を売って離農した人が多い」ということであった。
日本人の植民地は、前出のノーヴァ・イガラパーバを初めとして戦前・戦中、セントラール、バヨロン、セルタネージャ、ボアビスタ、エスペランサと出来たが、すべて消えた。セルタネージャなどは市街地化してしまっている。
子供を学校に入れる必要もあり、皆、町に住むようになったという。強盗対策もあったろう。農場より町の方が危険度は低い。土地を、そのまま所有している人も居るが、シチオにしているか賃貸している。
「農場に住んで、営農を続けているのは、多分、セントラールの藤原さんだけ」という話を耳にした。この植民地は1935年に開設された。1949年の記録だと、25家族が営農している。
藤原さんに電話をすると、お婆さんが親切に応対してくれた。他所の植民地のことは知らないが、セントラールでは、農場に住んで営農しているのは確かに自分の処だけで、セレアイスを栽培している、という。お婆さんは50年前、カンピーナスから、再婚のため藤原家へ入った。38歳だった。
「ここには(自分が来て以降)多い時は20家族くらい居ましたヨ。今は皆、町に住んでいます。土地は売らずアレンダ=賃貸し=している人も、かなり居ますヨ。収穫の一部を受取るンです。借りる方は、何カ所かまとめて借りるンです。町から通って来て営農している方も2、3人います」ということであった。
88歳という高齢の割には声に張りがあり、話しぶりも明るく、筆者は何故かホッとした。最初、植民地に一家族だけ残っている……と聞いて、別の印象を予感していたのである。
▽四章=参照・引用資料
パウリスタ新聞『在伯日本人先駆者列伝』、牛窪襄全著書。