牛にはそれぞれ、日本名ブラジル名を太郎、花子、テレザ、タチアナ、というように命名していた。太郎は日ごろボテコまで800メートルの道程を、出荷用の乳缶を載せて運ぶのに訓練していたので、カロッサは嫌がらずにつけさせていた。
でも、この日の太郎はちがっていた。
山道に入って二キロも歩かないうちに座りこんでしまった。いくら鞭でたたいても、掛け声をかけてもびくともしない。こうなると尻に火をつけても動かないのが牛である。この様子を見習ってか、他の牛もへたへたと座ってしまった。
泣きたくなった。
雨は小降りになっていたとはいえ、まだ、降り続いている。仕方がない、野宿しよう。道端の木に綱を巻きつけてテントを張った。
大貫は雨に洗われた草を鎌で刈り集めては牛に与えた。その間に大盾は火を起こそうと思ったが、どこを見ても落ち葉も枯れ草も湿っていて、火がつきそうな代物は一つもない。やむなくパラナ松の林の横に見える板壁の家は、牧場の管理人の家であろうか、そこへ行ってマキや焚き付けを分けもらい、ビニールの肥料の袋につつんで持って来て火をつけた。
ある程度の火のオキができると、濡れている木も周囲にならべて乾かし、夜通し燃やし続けることができた。こうして飯盒に飯を炊いて食べ、一夜を明かした。翌日から雨も止んだ。
悪戦苦闘とはこのようなことをいうのであろうか。32キロの道のりを、だまし、すかして牛を追い、四日がかりで小麦植民地に辿りついた。その間に、「あけみ」という母牛と子牛を一頭ずつ死なせてしまった。あけみは初日から泡をふき、乳房を地面に引きずるようにして歩いていたが、途中で倒れて痙攣を起こして息が絶えた。死体は道端の山の中に穴を掘り、引きづって埋めた。大盾が黄色い草花を供えた。
被害はそればかりではなかった。
後になって分かったのだが、そのほか、花子やテレザ、タチアナなど、みな乳が上がってしまい、一頭も乳は出なくなった。あまりにも過酷な仕打ちをした報いであった。こうなると手も足も出ない。これから健康を回復させ、種付け、孕ませ、子を産ませ、乳をとるまで、再び軌道に乗せるには二年を要する。これは経営上の致命傷だった。
行き先を考えれば酪農は無理だという結論を出さざろう得ない。牛は二束三文に売り払った。ここまで話を聞いた鹿さんは、自分も雨の中で鞭をふり上げながら歩いたような興奮を覚えながら、「へえ・・・・・やることはやるわい」と相槌を打ち、「それからどんなにして食い継いできた」と先を促した。
大貫はまたピンガの大瓶を担ぎながら、「そこよ、そこが先輩のありがたいところよ、ほら、小楠はセボーラ作りの名人だろう、それとミーリョを植えて豚を飼っていたので、俺たちをどうにか食べさせてくれたよ。そのうちに、くに(日本)から送金してもらって、小楠の隣接地を買い求めたよ。今の土地がそれよ、それを大盾と半分ずつ使っているわけさ」。
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