たった6家族!
この時も山口が活躍した。斉藤と職員一名を連れ、兵士に見つからぬ様、隘路を選んで州境のパラナパネマ河畔に出、そこから丸木舟で対岸に渡った──と資料類にはある。が、これは河畔で住民を探し、その所有する丸木船を漕ぎ手付きで雇い、河を渡ったという意味であろう。
対岸に着いた後は、サンパウロ州軍の兵士との遭遇を避けるため、一旦彼らの居ない北方へ進路をとり、バウルー辺りで迂回してサンパウロ市へ向かった。こちらの兵士も略奪を働く虞があったのである。
この山口栄、大した男である。運に恵まれれば、ひとかどの事業家になったであろう。が、数年後、惜しくも他界している。
話を戻すと、この内戦騒ぎで、入植どころではなくなり、ブラ拓の計画は完全に狂った。初年度に200家族を導入する予定であったが、成果はたったの6家族だったのである。
馬の背の様な…
筆者は、2013年以降、度々アサイの市街地を訪れたが、急な坂道が多いことに驚いた。歩いていると、いつも、坂道の途中に居る様な気がした。
この街の位置は、1932年、入植の年に決めた。地形・地質の調査もしていないのに、支配人の斉藤が本部から急かされ、適当に中央区の原始林の一部を選んだ。ところが、後で、そこを伐採してみると、馬の背の様な地形であった。井戸を掘ると、岩盤に突き当たった。市街地には最も不向きな土地だったのである。
そこに、斉藤はブラ拓の事務所、職員の居住用の小屋を幾つかつくった。が、同年末、他へ転じている。半年ほどの余りに短い在勤であった。市街地選定の失敗に関し、本部との間でトラブルがあったのかもしれない。
後任の支配人として臼井介仁という人物がやってきた。が、臼井も着任早々、市街地の予定地を見て、呆れ、本部に移転を意見具申した。「この地形では、将来の発展性はない」と。
ところが、この時、本部は拒否したのである。本部の最高責任者は、日本から着任して間もない宮坂国人であった。後に南米銀行を創立、経営した。サンパウロ市の文協会長にも就任、日系社会の代表者になった。
その宮坂は「拓殖事業は、国造りに似ている。最も男らしい仕事」という言葉を残している。無論、自身の思いを表現したのであるが、同時に多くの拓殖事業家たちの胸臆を、鮮やかに代弁した名言であった。しかし、その国造りという志しからすれば、やはり移転すべきであったろう。
宮坂さんのシクジリ
宮坂は、拒否の理由として「内戦騒ぎで、計画が1年遅れている」「予算不足」を挙げたという。臼井は反論したが、決定は変わらなかった。ほかに市街地に適当な土地が見つかっていたにも関らず……である。これが、その後の発展を阻害した──と、この移住地に関する資料類の記事は、暗に指摘している。
ほぼ同時期、チバジー河を挟んで西隣で、建設が始まった植民地は今日、人口50万の大都市に発展している。ロンドリーナである。この植民地を建設したのは、本稿の始めの方で登場した英国資本の北パラナ土地会社であった。(後に内資化)
同社は、さらにその西方にも開発戦線を延ばし、総計54万5千アルケーレス、つまり132万ヘクタールという超巨大な原始林を、植民地化した。日本の長野県くらいの広さである。