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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第11回=サントス強制立退き令の悲劇

『戦野』初版の目次前半

『戦野』初版の目次前半

 『戦野』は戦中のどんな〃ブラジルの機密を暴露〃していたのか――。
 『戦野』の第1章1節の見出しのみを羅列すると「日ブラジル交断絶」「資金凍結下の苦闘」「日本語教育受難」「日本人農家五十家族立退命令」「市内の日本人、立ち退き命令」で13頁。2節「昔懐かしコンデ街」では、その歴史から立退命令まで9頁に渡って説明されている。
 3節「海岸地帯の同胞四千人の立退命令」ではサントスの強制立ち退きの悲劇が8頁も抒情的に描かれている。
 サントスの強制立退きが起きたのは1943年7月8日だ。同月初旬に1万トン級のアメリカ汽船2隻と6千トン級のブラジル汽船3隻が、サントス港沖でドイツの潜水艦によって沈没させられた。これを受けてDOPSから枢軸国移民に対し、24時間以内の「サントス海岸部立退き命令」が出た。家財道具を置いてサンパウロ市の移民収容所に送られ、その世話をしたのが救済会の渡辺マルガリーダ氏だった。
 《家も商品も家財道具も何も彼も一切を放棄し、羊の大群が追われてでも行くようにほんの着のみ着のままで、小さな手廻り品だけを持つ女達、子供の泣き叫ぶ声、老人のうめき声、兵隊の叱咤の声、延々長蛇のごとき堵列は追われるように鉄道線路へ!と引かれて行き、そこで貨物同様に汽車に積みこまれ、厳重に鍵をかけられて、伴れて行かれた所はサンパウロの移民収容所であった》(27頁)。
 食事は1日に1回しか出ず、同胞の窮状を気に病んだマルガリーダが千人分のサンドイッチなどを差し入れした。
 『ドナ・マルガリーダ・渡辺』(前山隆、御茶ノ水書房、1996年、以下『渡辺』)に次のように語られている。
 《みんな家を閉めて、家財道具など全部置いて、着替えがけで来ましたから、泥棒が入って、きれいにお掃除してくれたように空っぽにしてくれてたりして…。急に産気づく人、熱を出して寝込む人、驚きのあまり流産する人、突然奇妙な行動を始める人、気の遠くなるような混乱がつづきました。ともかくこんなことが十日間つづきました。サントス方面からの立ち退きは、六千五百人あったんです。移民収容所では、入って来る人、出て行く人、みな記録を取っておりましたから、それで数えて六千五百人だったと言うのです》(245頁)
 『戦野』では4千人とされているが、実際は6400人だった。当時のトリブナ・デ・サントス紙をひっくり返すと、立ち退きさせられたのは大半が日本移民で、当時、沖縄系住民が多かった。それに加えて500人程度のドイツ移民。イタリア移民は、なぜか対象から外された…。
 《かくして数百人の一団は、パウリスタ延長線のマリリア市へ、他の一群はノロエステ線のリンス市へ、また他の貨物車に封じこまれた人々はソロカバナ線のパラグワスー市へと、云うふうに大きな駅々へ下車させられ、目下戦争で労力不足の耕地へ送られ労働させられた…》(『戦野』41頁)。
 この悲惨な運命に押しつぶされた人たちはブラジル政府に対する恨みを終生忘れなかった。その被差別感、屈辱感が「日本が負けるはずはない」という信念に入れ代り、この地域が戦後、勝ち負け抗争の激戦地になる底流となったのか――。(つづく、深沢正雪記者)