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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第12回=日本移民版「出エジプト記」

強制退去の様子を報じる『A Tribuna』(サントス)1943年7月10日付け(AESP)

強制退去の様子を報じる『A Tribuna』(サントス)1943年7月10日付け(AESP)

 岸本昂一はこのサントス強制立ち退きを《大南米におけるわれらの「出埃及(エジプト)記」》(同42頁)と譬えた。
 岸本のようなキリスト者にとって、ユダヤの民がモーゼに導かれてエジプトを脱出する苦難の歴史に匹敵する大事件であった。何千年経っても忘れない様に、ユダヤ人はその出来事を「旧約聖書」に刻み込んだ。
 6500人もが追い立てられて、まとまった記録すら残せなかった――。サントスから追い出された人々の一部は、当時新開地だったパウリスタ線のマリリアから先、ツッパン、ポンペイア、バストスなどにかなり入った。そこが勝ち負け抗争の中心地となっていくことに、深い因縁を感じざるを得ない。
 自ら炭鉱労働する中で下層労働者の視線から日本社会を抉った記録文学の名手・上野英信さん(1923―87)も、興味深いことに似た発想をした。九州の炭鉱が閉山されて働き口を失い、生き残るためにブラジルなどに渡った炭鉱労働者とその家族を追い掛けたルポに、『出ニッポン記』(1977年刊)と名付けたからだ。
 岸本は日本移民版「出エジプト記」を本に書き残して、聖書のように「後世に言い伝えなければ」と考えたが、現在から見てみると見事にその歴史的事実は正史から排除されている。
 例えば『移民70史』でコンデ界隈からの強制立ち退きは4行、日系企業の資産凍結が3行、サントス立ち退きはたったの4行だ。日本移民の受難の歴史がわずか数行で済まされているのは、なぜなのか――。
   ☆   ☆  
 『戦野』の中でサントス強制立退の次は「獄中記」になっており、56頁から《日本人ここに在り 脇山大佐の投獄》になり、71頁まで描かれる。1942年1月に国交断絶後の4月、バストス移住地に住んでいた脇山甚作退役大佐はスパイ容疑で逮捕され、サンパウロ市のDOPSに送られた。
 脇山大佐は取り調べ官に対し、拘引したのが軍事探偵の嫌疑なら思う存分調べよ、もし日本の陸軍大佐なるが故であれば、陸軍大佐としての待遇をせられたい。《大佐の官級は一個人脇山のものでなく、日本帝国のものである。帝国の威信のためにこれを要求するものである》と述べた。
 偶然、同じ部屋で取り調べを受けていた別の日本人が出獄したのちに、岸本に対しこう語った。《幾百十人の日本人が言語同断の過酷な取扱いを受け、言うべき言葉を封じられ、無念骨髄に徹する思いでしたが、今日図らずも脇山大佐の取り調べに対する堂々たる帝国軍人としての言論と、相手の係官を威圧してゆく沈着豪胆な態度を見まして、百日の暗雲が一時に吹き飛ばされて、キラキラと輝く太陽を見るような感じになりました》。
 つまり、『戦野』が出た1947年暮れ時点で、脇山大佐を称賛している。
 おもえば脇山大佐は、勝ち組強硬派から認識派に宗旨替えした「裏切り者」として1946年6月に殺された人物だ。明らかに岸本のものの見方は、勝ち組強硬派とは異なることが分かる。(つづく、深沢正雪記者)