戦前・戦後のブラジル日本移民約25万人、それぞれが大きな夢と希望を抱き地球の反対側ブラジルまでやって来た。その殆んどが農業移民であった。
だが、日本での宣伝やそれぞれが想像していたこととはあまりにも差異があり、表現の仕様もない過酷な苦労を重ねた移民群衆。働けど働けど食うのが精一杯の暮らしで、歳を重ねるとともに成人になった子供たち、特に広大な農場の傍らで社会との繋がりもないまま年頃となった子女の将来が気になり、とうとう農業を諦め都会へと転住したが、その地もまた、苦難の連続であった。
しかし、あれから100余年も経った今日、移住を悔やむ者はほとんどいない。苦労は希望と安住への始まりであったのだ。天災地変も人種差別も少ない自然と社会の環境の中で、それぞれが家族を形成し、子孫も繁栄、この大国に感謝の移民群衆である。
この度、宮城あきらが立ち上げた沖縄移民研究学習塾に賛同し塾生の一員に加えさせてもらった。今回は、僕が渡伯当時よりご支援・ご指導いただいた大先輩・金城郁太郎(故人)の「移民人生」を彼の4男建次君からの聞き取りと、長い間のお付き合いを通して見聞したことがらを混じえて紹介させて頂く。
沖縄戦―疎開引率の苦労と戦後の困難
金城郁太郎は、1954年37歳でサンパウロ州アルタイルという小さな田舎町近郊に移住した。妻喜代(38歳)、次男隆志(12歳)を先頭に長女ムツミ(9歳)、3男郁次(5歳)、4男健治(3歳)、3女マサヨ(1歳)の子連れ移民であった。旧小禄村字田原に生まれた彼は少年の頃から才能に恵まれ、貧困と職業難の時代、村で唯一水産学校に学んだ。将来水産業界に夢をかけての進学であった。だが、卒業後の彼は、兵役や結婚あれこれと時を過ごしているうちに村長の呼び掛けで小禄村役場に就職した。
1944年になると、太平洋戦争の暗雲はじわじわと沖縄に迫り、学童疎開や一般家族疎開者が日本内地へと続々と避難した。彼は、疎開者引率係りを任命され危険な海上を行き来した。沖縄への戦争の足音も間近に迫り、地元の村役場でも避難のために多数の退職者も出るような時期、村長はあえて最後の疎開者引率任務を命じた。その中には彼と妻と次男隆の3人も含まれていた。彼も家族と共に疎開先に残ってくれるものとの思いから村長じきじきの指名であった。しかし彼は、任務報告のためすぐ沖縄に引き返した。そのまま疎開先に家族を残し「如何に暮らしていこうか」、とすがり付く妻子を押し退けて、任務遂行のための別れに身を切られる思いをしながら、どうしようもない思いを胸に秘め、運を天に任せて帰沖するのであった。彼の顔を見た村長は、「お前、帰ってきたのか」、とびっくりし唖然とした表情で聞いた。「はい、昨日戻りました」
「して、家族はどうした」
「はい、お蔭様でなんとか」、と涙まじりの言葉で答えた。短い会話であった。