1941年12月、太平洋戦争が勃発し、ブラジル政府から最初に目の敵にされたのは戦前の日系社会指導者層、つまり戦後の認識派リーダーであった。戦前に大事業をやっていた東山農場、日系商社、ブラ拓などは資産凍結、もしくは政府任命の監督官が送り込まれ、枢軸国側からの攻撃でうけた損害を移民の資産から賠償するために差し押さえられた。
南米銀行創立者の一人である『宮坂国人伝』(角田房子(つのだ)、新潮社、85年)にも《大西洋でブラジルの商船がドイツ海軍に攻撃されるという事件が起こった。ドイツ政府はその損害賠償の約束を実行しなかったので、ブラジル政府はこの種の戦災の続発を予測し、その損害賠償を確保するための処置として、日本を含む枢軸国系在留民の財産に包括的に担保権を設定することになった。一九四二年(昭和十七年)三月の大統領令第四一六六号に始まる一連の行政命令で、枢軸国籍者に対する銀行預金払い戻しの制限、預金及び所得の天引き没収、不動産を主とする一般資産の凍結がその内容であった。この中の預金の支払制限のため、南米銀行は事実上の臨時休業状態に陥った。
ブラジルの対日国交断絶後は、宮坂の親しい人々が、理由もなく次々に獄に引かれていった。今は敵性国人となった日本人は、それに対して抗議も出来なかった》(77頁)とある。
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1942年3月に資産凍結された主だった企業・組織は次の通り。
▲東山関係=カーザ東山、東山銀行、東山農場、東山絹織物工場、農産加工会社
▲ブラ拓関係=ブラ拓、ブラ拓製糸工場、ブラ拓綿花、カーザ・ブラ拓
▲海興関係=南米土地会社、アルマゼン海興、海興銀行部
▲その他の民間企業=蜂谷商会、破魔商会、伊藤陽三商会、リオ横浜正銀、ブラスコット、東洋綿花、小西商会、日伯拓殖会社、アマゾン拓殖会社、野村農場(『パウリスタ新聞に見る30年の歩み』77年、14頁)。
つまり、市民に食糧を供給する産業組合以外、戦前からの主だった日系企業、事業体はすべて資産凍結された。手塩にかけて育ててきたこれら事業、会社を一瞬に凍結させられた企業家たちの精神的なショックはただ事ではなかったはずだ。
『宮坂国人伝』には南銀創立者の一人の加藤好之らが42年8月20日に入獄(79頁)との記述もある。《十二月二日、加藤君出獄》とあり、この後の一年間、1943年10月までの宮坂の日記は空白になっているという(80頁)。書き記せないことが、この間に起きていたのかもしれない。
《南銀二十周年に当たって、加藤好之は「戰爭のとき、とうとう手を上げなかったのですが、そのかわり死ぬような思いをさせられました」と書いている》》(91頁)という意味深な記述もある。(つづく、深沢正雪記者)
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