ブラジルへの移民―その動機
そのころのことである。ブラジル近親者呼び寄せ移民再開のニュースに接し心動かされ、妻に持ちかけた。丸いお膳に熱い芋を囲み家族揃って夕食の最中であった。
「ネエ、かあちゃん、私はブラジルに移住することを決めたよ、今の仕事も何時まで続くか知らない。大国に出て思う存分やって見たいんだ。そして、将来安定した円満な家庭を築きたいんだよ。この子供達もブラジルの大国で大きく育ててあげたい」
妻は剥きかけた芋を握ったままうつむいて黙りこんで聞いていた。今でさえ乳飲み子や3人の児の育児に手を焼いているというのにブラジルの山奥に移住とはとても話しにならない、という思いで考え込んでいた。「オイ、なんとか言えよ」、妻は「もっと良く考えてみなさい」、「せめてこの乳児が歩けるころまで」と興奮ぎみに言った。乳児、幼児の手のかかる育児、産婆の妻は知り尽くしている。
「ブラジルの農業は町から遠く離れた山奥、病院も学校も遠い、どうするつもり?」と口元まで持ち上げた味噌汁お椀をお膳に戻すと、彼の顔に向かい言葉を震わせた。夕食も過ぎて郁太郎の説得は深夜までつづく。その長話に子供達は膝にもたれて寝込んだ。その寝顔を心配そうに見つめる妻、郁太郎もその場は話しを切った。
だが彼の心は決まっていた。その動機には成る程と思わせる理由があった。それは彼が乳児の頃(1917年)、家族を沖縄に残し単身でブラジルに移住した父の意志を継いで家族の将来の生活を築くことであった。
小さな島国、いつまでも芋と野菜の自給自足に見切りをつけて、ブラジルに渡った父、大国で頑張って、将来の見通しがつき落ち着いたら家族を呼び寄せる夢を抱いていた父のことであった。
父は、到着そうそう、マット・グロッソ州アキダバナ地方の鉄道工事に従事した。差し当たり一人者が食べ物や宿を確保しながら儲けるには適当なの職業だと判断したからだ。そして現地人と共に荒れた山河にツルハシを握り働き続けた。
しかし、慣れない仕事や食事、言葉や風習の違いから身も心も疲れ、痩せ型の身体は益々細るばかりであった。孤独の暮らしに体力も劣り、突然襲ってきた心臓発作で倒れた。身内もいない、十分な手当て看病もない闘病に負けて、無念の涙を呑みつつ他界した。1917年8月渡伯わずか2ヶ月目のことであった。
その8年後、父の埋葬に立ち合ったという知人から父亀の遺骨が家族のもとに届けられた。郁太郎は、父の歩んだ悲惨なルーツを自身の目で確かめたいという気持ちをいつも心の中に持ち続けていたのだ。
金城亀は、1917年小禄田原からのブラジル移民第1号として若狭丸で海を渡った。その2ヶ月後に,河内丸で13家族のウルクンチュ移民が渡伯するがそれぞれ皆配耕地が異なり、ましてマットグロソ州とは、それこそシマンチュ・知人もない単身移民であった。統計から村別に見ても一番多いウルクンチュ移民、しかし誰ひとり金城亀のことを知る者はない。彼だけしか知らない辛く悲しい短い人生であった。