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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第20回=元親日派ブラジル人ゆえの岸本攻撃

マリオ・ボテーリョが編集責任者をしていた戦前の雑誌『文化』の表紙(移民史料館)

マリオ・ボテーリョが編集責任者をしていた戦前の雑誌『文化』の表紙(移民史料館)

 DOPS調書には『戦野』の翻訳をした「マリオ・ボテーリョ・デ・ミランダ」が書いた翻訳者所感が書かれた報告書(48年4月22日付)も挟み込まれている。
 いわく《この本には疑う余地もなく、主に戦争中において祖国(日本)から孤立してここで苦しむ日本人への圧迫、ブラジルでの残酷さへの警告に加え、批判的な意見や表現が見られる》とし、まえがき部分で戦中に収監された折りの監獄での生活や他の拘置者について、警察に隠れてこの本を書いたとある点を強く問題視している。
 また《この著者は民族運動や日本人とブラジル人間の隔離化を進める意図がある》と見ており、通訳注として《この本はブラジルに住む日本人にとって、帝国主義の方向に向けて反戦争(編註=「枢軸国寄りの立場」という意味か)の日本式ナショナリズムを高揚させる強迫観念を形成する》危険性まで指摘する。
 岸本は日系二世の公証翻訳人「Y」が『戦野』を意図的にゆがめて翻訳したと思っていたが、本当はマリオ・ミランダではないか。
 マリオ・ミランダに関して調べてみると、勝ち組から見た抗争を記した手記『思想戦回顧録』(1946、多田幸一)に次の一節があった。
 《在監者の取り調べは実に常軌を逸したものであり、彼ら自らが己が国家に泥を塗るが如き行為を敢えてして憚る処がなかったのである。先づ第一手段として戦争に勝った? 負けたか? を以て罪に陥れ様としたものであった。
 この訊問に応えて直ちに負けたと云えば署名を取って釈放し、勝って居ると云う者に対しては暴行殴打を加え罵詈雑言を浴びせ剰さえ、恐れ多くも御真影強制傷害不敬事件を敢えて行わしむるに至った。
 この発起人は通訳マリオ・ミランダと課長のゼラルド及び部下のロンドン刑事であった。マリオ・ミランダは人も知る戦前2年に亘りて日本に留学して帰朝した者で戦前に於いては大いなる親日家として一般に知られていたのである》
 マリオ・ミランダは勝ち組の「敵」だと認識され、御真影を踏ませて敗戦を認めさせる「踏絵」の考案者の一人と、多田は書いている。
 マリオ・ミランダが「戦前に於いては大いなる親日家」だった事実を調べると、確かに日伯交流史において異色の人物だと分かった。戦前には「日伯交流の旗手」だったのに、戦中から一転して摘発側に回ったのだ。
 『ブラジルに於ける邦人発展史』(上、1941年、東京、同刊行委員会)の第3節「日伯親善運動」項によれば、マリオ・ミランダは「サンパウロ日伯文化研究会会長」「ブラジル銃剣道連盟会長」「サンパウロ貿易斡旋所顧問弁護士」の3肩書をもって1940年に、USP法科・医科学生ら20人からなる「日本文化見学団」の団長として訪日した。山城ジョゼも一員だった。
 38年暮れから当時ごく珍しい日伯両語の月刊雑誌『文化』(Revista Cultural Literaria、遠藤書店)が刊行され、その編集責任者にマリオ・ミランダ名がある。編集の中心は安藤全八、当時学生だった平田進も理事だ。
 38年12月25日には全伯の日本語学校が閉鎖された。そんな強圧的な逆風の12月に、永住志向の一世インテリが集まって作ったのが両語雑誌の『文化』だった。戦前は十分、親日派といえるブラジル人だった。(つづく、深沢正雪記者)